「本人」のぼりの話

ようやく寝ついてくれた。数十分にわたる孤軍奮闘の末、ついに我が子が眠りに落ちたのだ。

何度もあきらめようと思った。パスタキャニスターに詰め替えたばかりのスパゲッティを「母よ、こちらの方が容器として優れてはいまいか」みたいな表情で私のブーツの中にぶちまけているのを目撃したときは、もうだめだという気持ちが半分、ツイッターにアップすればウケるという気持ちが半分だった。一応写真は撮り、我が子の顔をハートマークで加工したものの、ブーツの汚れが目立っていたので削除した。「ブーツの手入れもできないやつが、子育てなんかできんのかよ」などとリプライされたら、私は立ち上がれなくなるだろう。

だがそれも過去のことだ。なんせ我が子は眠っているのだ。すぴーすぴーと、冗談のように小さい鼻の穴から音を鳴らしながら、無言で生を肯定するかのように眠っている。それでいい。他に何もいらない。私はキッチンに数箇所ある「とりあえずレジ袋入れとけコーナー」の一つからレジ袋を一枚抜き取ると、くすんだ革のブーツを手に取り、スパゲッティの処理をはじめた。まさにそのときだった。隣の選挙区まで響くような爆音で、やる気だけはありそうないい大人の声が聞こえてきた。

「お騒がせしております!○○でございます!子育て支援は○○、○○は子育てに励むみなさまの味方です!子育ては○○、子育ては○○、あっ、沿道のみなさま、ご声援ありがとうございます!どうかみなさまの清き一票を……」

ガン寝、という言葉があるが、このとき我が子はまさに「ガン起」したのだった。さっきまでの天使のような眠り顔は消え去り、我が子の目は爛爛と輝いて、ジャングルの王である捕食動物のように次なる獲物を求めていた。

「や、やめて!いま片付けてるから!」

現在進行形を用いたのがよくなかったのか、我が子は「いっちょやってやりますかああ!」みたいな顔でブーツに突進していき、とてもルンバの手には負えない長さのスパゲッティを、何かの神事のような厳粛さと俊敏さをもってフローリングにぶちまけた。私の耳に、さっきの選挙カーの声がよみがえった。覚えてたまるかという無意識のなせる業なのか、候補者の名前は思い出せなかった。

以上、短編小説『何が子育て支援だよ』をお読みいただいた。完全に想像だけで書いたが、これに近いことは全国で起きているだろう。明日は統一地方選挙の投票日である。

選挙カーに乗って政策もおろそかに名前だけを絶叫したり、当選したら乗らないだろう安い自転車に乗って有権者と握手をしてまわったりすることに、どれほどの集票効果があるのかは知らない。ただ、これだけネット上で「無駄だ」「馬鹿らしい」「うるさい」などと批判されていてもなくなる気配がないということは、一定の効果があるのだろう。もしくは、候補者や支援者が「仕事をした気になる」という利点もあるかもしれない。肉体的な疲労をともなうし、選挙カーの運行距離や握手した有権者の数は具体的な結果になる。八時前の候補者を見ていると、この後サウナ行ってビール飲んだら気持ちいいだろうな、とわたしは思うのだ。

そんな、「ださい」を煮詰めて鍋がこげそうになっている日本の選挙戦であるが、わたしには楽しみにしているものがある。「本人」ののぼりだ。あれを見かけるのが楽しみでしかたない。あののぼりはもはや「ださい」の範疇をはみだし、ある種のコンセプチュアルアートの域に達していると思う。

だって「本人」である。当然「候補者本人」の略であり、それを明言することが有権者を引きつけるからそんなのぼりを持つのである。それにしても「本人」だ。俳句以上にぜい肉のない表現であるがゆえ、その意味は文脈、つまりのぼりが置かれる場所によって変わってしまう。

選挙運動で「本人」ののぼりの隣にいる人は、候補者本人だろう。結婚式場でなら新郎新婦だし、誕生日パーティーでなら誕生日を迎えた人だろう。船の沈没等で無人島に流れ着いた一団が意を決して脱出するときは、イカダの端っこにこののぼりを突き刺してほしい。ヘリコプターに乗った捜索隊がイカダを発見し、そこに刺さっているのぼりを識字した瞬間に、本人確認が終了する。また、こののぼりを持って役所に行けば、年金、住民税、健康保険といったあらゆる手続きがハンコも免許証も提示せずに完了する。旧作か準新作なら、ツタヤでも会員証なしで借りられる。

窓の外から候補者本人の「最後のお願い」が聞こえるなか、わたし本人はそんなことを考えている。読者本人はどんな感想をお持ちだろうか。

次回の更新は4月27日土曜日です。

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