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着ぐるみ越しに手をつないだ話

しっかり手をつなげ、と上司に命じられたことがある。ある会社に勤めていたときわたしは、着ぐるみの付添をやった。手をつなぎ、視野となり、虚構を成立させるのがわたしの役割だった。わたしは多分、入社一年目だった。

わたしはニューエラで「9」を選ぶ。中学のヘルメットは半ば浮いていた。それほどまでに頭のでかいわたしは、新入社員がやるべき「中の人」になれなかった。頭部を頭部に入れるとき、こめかみの時点で諦めた。だからわたしの役目はいつも付添で、それは業界用語で「アテンド」と呼ばれる。

「じゃあ森くん、よろしくね」

ある日のイベントで相棒になったのは、同期入社の女性だった。知的なボブと転がるような語り口。当時は同じ部署に配属されていたが、出世コースの彼女が半年後に異動するのは、もはや公然の秘密だった。

バックヤードの一角、到底「室」ではない空間が、われわれの控室とされた。彼女は眠ったような膨大な商品群に囲まれながら、わたしが目をそらす隙もなく上着を脱ぎ、Tシャツ姿になった。下はそもそもショートパンツだった。

「うわ、もう暑い」

人間を動物に化かすのが目的だから、着ぐるみを着ると「素」が見えない。控えめなガールフレンドが浴衣から見せるくるぶしほどの露出もなく、ふつうのサングラスからのぞいたような、ただしサングラスの範囲外は真っ暗なような、きわめて限定された視界しかない。だからアクターは三十分ごとに休憩するのだし、その手を離してはならないのだ。

すっかり動物になった彼女に、もう行けるのかと声をかける。ふだんの口癖なら「オッケー」と言うところを、彼女は無言でうなづく。わたしは左手に販促物の入ったかごを持ち、右手で彼女の手をつかむ。これが仕事であるということと、暑くて見えなくて不安だということが、彼女の握力を強める。

ショッピングモールのバックヤードから巨大な動物とふつうの人間が出てくる。曲がるときは曲がるよと言う。あっちに手を振ろうねとも言う。生きものらしいランダムな反発を感じながら、着実に会場に近づいていく。彼女と手をつないでいる。それは上司の命令なのだが、社員ではない自分もいる。

握手をしたり写真を撮ったり、二十分ほど子どもたちと触れ合ったあとでまんまるの目を見る。そろそろ帰ろうねと声をかけると、意思の勢いを減じたようにのんびりとうなづく。ふわふわの手をつかむと、今度は力が弱い気がする。わたしはさっきよりやさしく握りたくて、そうする。

慎重にバックヤードに入り、控室に向かっていくなかで、だんだんと動物分が減る。合図をして頭部をとると、そこにはゆであがった女性の顔がある。わたしは大急ぎで背中のジッパーを下げ、彼女の肌が空気に触れるようにする。ポカリとって。わたしはのどが鳴るのを見ながら、手の感触を思い出す。

次回の更新は10月31日(土曜日)です。

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