卒業式の帰るタイミングの話

最初に断っておくが、卒業式で泣いたことはない(涙をとっておきたかったわけではない)。中学高校と制服が学ランで、軍事国家の閣僚が着る服みたいにがっしりしたサイズを着用していたものの、第二ボタンをねだられたこともない。本当に高官だと思われていたのかもしれない。

いままで小学校、中学校、高校、大学と順調に「卒業」してきたわけだが、順調すぎたからなのか、卒業式自体には特に思い出がない。各学生生活の穏やかなハッピーエンド(またはエピローグ)として、普通に過ごして普通に帰ってきただけだ。

しかし、消化できていないことがある。それは「やっぱり告白しておけばよかった」みたいな、甘い後悔ではない。卒業式のあと、どのタイミングで帰るのがベストだったのかという問題だ。

朝教室に集まって担任から訓示めいたものがあり、体育館に移って完璧に台本に沿った卒業式をこなし、また教室に戻って担任から訓示めいたものがあって、公式の行事がすべて終わったあと、「各自アルバムに寄せ書きもらったりしてくれよ」みたいな、非公式な自由時間が皆さんにもあったはずだ。

「自由」という概念そのものの価値については、ここでは語り尽くすことができない。ただ確実に言えるのは、「自由」が一定のスケールを超えると、必ず「不安」が生じるということだ。例の非公式な自由時間は、わたしにとって不安の塊であった。

まず、制限時間がない。

何時何分までに教室を、もしくは学校を出ろという制限がないため、いつ帰るかが各自の裁量に委ねられる。つまり、あまりにも早く帰ると、「あれ、もう帰るの!?」と注目を浴びてしまうのである。「あの子、友達いなかったもんな……」と思われてしまうのである。働き方改革が叫ばれる昨今であるが、卒業式後の自由時間においては、ある種の「残業」が暗黙裏に求められるのだ。

さらには、行動にも制限がない。

寄せ書きを「もらったり」してくれということは、寄せ書き以外にもあらゆる行動が可能だということだ。クラスの友人と写真を撮ってもいいし、クラス外の友人のもとに行ってもいい。ファミレスやファストフード店での二次会を企画したっていいし、担任以外で世話になった先生に礼を言いに行ってもいい。どうせもう会わないのだから、決死の思いで告白したっていいわけだ。

ここで、ホテルの朝食バイキングのことを考えてほしい。あの楽しい楽しい、貴族になったような気分でサラダやらスクランブルエッグやらを皿に載せ、調子に乗って食べすぎて旅行に支障が出ることでおなじみの朝食バイキングである。あれが楽しいのは、ちょうどいいメニュー数で、なんとなくの制限時間があるからではないか。ホクホクのウインナーどころか北京ダックやステーキまであって、夜まで何時間でもいてよければ、宿泊客は、選択肢の多さに不安になってしまうのではないか。

別に、不安になる必要はなかったのだ。閣僚みたいな学ランを着て、好物のカリカリベーコンを食べていればよかったのだ。選ばなかった選択肢のことを考えて、「あっちを選べばよかったかも」と悔やむ必要はなかったのだ。

会う人には会うし、会わない人には会わない。それがわかったのは、卒業して長い時間が経ってからだ。

次回の更新は3月13日水曜日、正午です。

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