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ない場所の話

玩具メーカーの新人だったころ、「店舗巡回」という仕事をしていた。営業車を飛ばして各店におもむき、自社のメリットになるように話をつけたり作業をしたりする仕事である。

自分を含め全員が気づいていたと思うが、見事に向いていない。そこまで親しくない知人と街で遭遇したとき、「はなす」より上に「にげる」のコマンドがある男だ。それがむずかしい場合は、「どうぐ」の「スマホ」で視線をそらし、下を向く。

そんな自分がなんとか週五でやり通せたのは、少ないながらも楽しみがあったからだ。まずは運転。学生時代東京で免許をとったものの宿命として、卒業後に運転の機会がなくなり、技術が低下してしまうことがある。だがわたしは見事にそれを回避し、「森さんの運転だと安心して眠くなる」と後輩女子社員に言わしめた。次はラジオ。午前中の運転は前夜録音した「 JUNK」を聞き、午後は「小島慶子キラ☆キラ」を生で聴いていた。車内は一人だから全開で笑うこともできた。当時ゆっくりと進行していた鬱を霧散させ、冷静に運転できたのはTBSラジオのおかげである。

そして最大の楽しみは、そのものずばり「旅」だった。

わたしの担当は「法人」で、個人経営の店舗ではなく、全国展開する大型店が得意先だった。チェーン店だから、どこに行っても売られているものは同じだ。違うのはそれが関東のどの地点にあるのかと、店名の後半の「○○店」だけだった。

社長の自家用車のドアをはさんで壊したことがあるらしい立体駐車場から、使いやすいほうの営業車を出して乗り込む。カーナビに店の電話番号を入れ、所要時間とガソリンの残量を確認しながらゆっくりとアクセルを踏み、ハンドルを右に回す。路地、というべき細い道から大きな車道に出て、アサヒビールの金のうんこ(そうとしか言いようがない)を横目で見ながら高速に乗る。今日は○○店、明日は○○店。平日の朝、なんらかの用を足すために走る車はみな、後ろ姿が似ている。

だが、高速を降りて街中を進んでいるうちに、点が線に、線が面に、面が空間になっていく。車道をはさむ街並みはどこも似ているが、どこかが決定的に違う。信号に書かれた地名の読み方がわからない。イオンモールの巨大な看板の奥に、聞いたこともない偉人の記念館の小さな看板がある。わたしが車を進めるごとに、街が少しずつ具体化していく。

昔のテレビゲームは、いまより不備が多かった。だから3D空間をキャラクターがぐいぐい前進しても眼前の景色がまだ無く、少し遅れて両端から消失点まで街が生えてくることがあった。そこは最初からあるのではない。わたしが行くまで、そこはなかったのだ。

移動が制限されているいま、遠くの場所は情報として存在する。「ある」ことは頭で理解しているが、そこに行くことは叶わない。だがもちろん、わたしが行くまでは、そこは「ない」のだ。

店舗巡回を終え、上りの高速に乗る。日除けをしないと目が赤くなってしまう。ふと見ると、バックミラーには後続車両のドライバーが映っている。ドライバーはこの車の後ろ姿を見ている。

次回の更新は9月12日(土曜日)です。




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