ハムスターを埋めた話

小学校中学年の頃、家でハムスターを飼っていた。後にも先にも、一緒に暮らした動物は彼だけである。いや、「彼女」だったかもしれないし、小学校低学年の頃だったかもしれない。それほどまでに記憶が曖昧なのはたぶん、強烈な罪悪感なしには、彼のことを思い出せないからだと思う。

「飼いたい」と言い出したのはわたしだった。その年代の子どもらしい気まぐれだと思う。捨て犬を拾ってくる『クレヨンしんちゃん』のエピソードに触発されたのかもしれないし、同級生の家に犬や猫がいるのをうらやましがったのかもしれない。「飼いやすい」ゆえに「責任が取れる」という理由で、犬猫でもウサギでもなく、ハムスターが選ばれたのだった。

当時よく母親と行っていたジャスコ(イオンと呼ばれる前)に、「アイドルスリー」というペットショップが併設されていた。母親の買い物に付き合ったり、祖父母におもちゃをねだったり、あまり照明の当たらない書籍売り場でコミックスの背表紙を眺めたりすることはよくあったが、そこに足を踏み入れたことはなかった。「ペットショップに入れる資格」を得たような高揚感を覚えながら、わたしと母は、ジャスコ本体とは別の入口を通って店に入ったのだった。

ハムスター、ケージ、水飲み器、ひまわりの種、その他に細々としたものをまとめて買ったが、五千円にも満たなかったと思う。プレステのゲームソフトよりも安いことを不思議に思いつつ、わたしは助手席に座り、いつもの風景が流れていくのを見ながら、これからはじまる新しい生活に胸を躍らせていた。

わたしは彼を溺愛した。そして正直に言えば、愛しているのと同じくらい、面白がってもいた。ひまわりの種を食べる姿、水飲み器から水を飲む姿、時折休みながら回し車で走る姿。そのすべてが愛らしく、そして面白かった。人間である自分だって食べたり飲んだり(体育などでいやいや)走ったりもするのに、彼の行うそれらはどこか神々しく、かつ冗談のようだった。

次第に飼育のコツをつかみ、ハムスターのいる生活にも慣れていった。アイドルスリーでエサを買うのが習慣になり、ペットショップに入る高揚感はなくなった。ハムスターの生態がよくわからず、自分の楽しみのためにハムスターボールに入れたりした。この頃に生まれた慢心が、後の悲劇を呼ぶことになる。

初冬、と呼べる頃だったと思う。日が出ていたかどうかは覚えていない。わたしは家になぜか二箇所あるトイレのうち、ハムスターのケージのそばを通って行くほうに向かっていた。ふとケージをのぞくと、彼が身動き一つせず寝転がっていた。眠っているようでもあるが、どこか様子がおかしい。わたしは急いでケージを開け、彼を持ち上げた。子どもの手のひらに収まった彼の身体は、はなから生き物ではないかのように冷たかった。わたしは泣かなかった。とんでもないことをしてしまった、という思いに打ちひしがれた。

その翌日、わたしはシャベルかスコップを持って庭にいた。平日の夕方で、祖父も一緒だった。「この辺かな?」と相談しながらわたしは穴を掘り、彼を横たえ、土を戻した。雑草が生い茂る肥沃な場所だった。

その数日後、ハムスターが冬眠をするということを知った。わたしは、そんなことも知らずに命に対峙していた自分の愚かしさを噛み締めた。あのとき本当に亡くなっていたのか、冬眠していただけなのか、今となっては確かめようもない。しかしどちらにせよ、無知なわたしに飼われた彼は、冬眠の際の適切な処置も受けられずに庭に埋められたのだ。

実家が神社なのに無宗教であるわたしだが、彼には天国に行っていてほしい。天国なんて実在しないし、所詮は生きている者に都合のいい想像だとはわかってはいるが、それでも彼には死後を謳歌していてほしい。天然の草やひまわりの種を食べ、池から水を飲み、時折休みながら野を駆け回っていてほしい。

それ以来、わたしは動物を飼っていない。あの小さく冷たい身体を土に横たえた瞬間が、ずっと頭から離れないのだ。

次回の更新は、5月11日土曜日です。

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