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高い買い物に救われる話

だんだんと「文芸」というものの勘所がわかってきた。Aさんのことが好き、ではなく、Aさんの背中を点になるまでじっと見ていた、と書くほうがより文芸なのだ。だから今後の書き手としての成長のためにも、読者に対する誠意を込める意味でも、直截な表現は避けるべきなのだが今日は書きたい。つらい。きつい。憂鬱でたまらない。

わたしは文明人だから雲の正体を知っている。そしてこの鬱の出どころもわかっている。よって具体的な解決策が「春まで健康に過ごせ」に集約されることは自明なのだが、「健康」には心という、少々扱いがややこしい器官も含まれる。その器官のためにわたしは、七千円の包丁を買った。フルーツの皮むきに使う日本製の包丁だ。

昔からお金が貯まらなかった。お年玉も早春には小銭になった。社会人になってからもその姿勢はつづいたから、休職時には大変なことになった。わたしは安いものを無遠慮に買いまくっていた。

年をとるにつれ、たくさん買うことにくたびれるようになった。たくさん買うことはたくさん飽きることであり、それはまた、たくさん別れることでもあるからだ。出会いと別れは抱き合わせで売られる。別れるたびに身体の一部がみちみち、とちぎれる。それを無意識におそれているのか、わたしはものを買わなくなった。買ったとしてもそれは、別れの遠いものがふえた。

その包丁を買ってからわたしは、二日に一度は皮を剥くようになった。まったくその習慣がなかった以前と比較すれば、腸もゴミ箱も驚くような変貌ぶりだ。高い包丁はよく切れるから、気持ちがいい。それに、高い包丁を買った元を取りたいから、しばらくこの作業に飽きることはない。

わたしは十年後もこれで皮を剥いているかもしれない。愛なのか意地なのか判別できない感情で、もしかすると東京ではないところで、もしかすると誰か別の人の隣で、りんごや梨の皮を剥いているのかもしれない。わたしはそのときもきっと不器用だが、途切れた皮は十年前とつながっている。

次回の更新は11月14日(土曜日)です。

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