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琵琶湖旅情編(3)「もう一回投げてよ」

〜前回までのまとめ〜
就職前の「卒業旅行」として、5月27日から29日まで琵琶湖周辺を旅することになったわたし。旅の初日に翻訳家・村井理子さんのお宅にお邪魔し、愛犬の黒ラブ・ハリー君と遊ぶことになった。邂逅の瞬間、予想以上のパワーでわたしの顔をなめる彼に圧倒されながら、わたしはなんとか村井さんの運転する車に乗り込んだ。助手席に鎮座する彼は、これから琵琶湖の浜で遊ぶことを完璧に理解しており、その尾を高々と突き上げていたのだった。

運転席には村井さん、助手席にはハリー君、後部座席にはわたしがいる。そのうちの一人は顔が濡れており、そのうちの一頭は鼻息荒く尾を突き上げている。人間二人がわたしの再就職について色々と話し込んでいる間も、彼の頭には「浜・枝・疾走」のイメージしかなかったのだろう。

車が駐車場に停まった。リードを持つ村井さんを、彼はものすごい力で浜まで引っ張っていく。楽しみで楽しみでしかたがないのだ。村井さんがリードを外し、その辺の枝を湖に投げ込むと、彼は「これだよこれ」とばかりに湖に飛び込み、ザブザブと泳いで枝を咥え、ザブザブと泳いで浜に帰ってくる。大きな犬が水を掻く音が、静かな湖畔に響いていた。

何度か村井さんが投げたあと、わたしが投げることになった。緊張の瞬間だ。わたしが枝を持ち上げると、彼は「頼むぜ旦那」とばかりに枝を見つめる。その期待に応えようと、慣れないフォームで枝を投げた。遠い。飛び過ぎだ。「遊び」の範疇ではない、本気のレトリーブ(回収)になってしまった。わたしがそう後悔しているなか、彼は余裕の表情で湖に飛び込み、大きな音を立てて着実に泳ぎ、枝を咥えて帰ってきた。浜に上がってガシガシと枝を噛むと(これはどういう意図なのだろう)、ポイ、とそれを落とした。「もう一回投げてよ」という意味にしか思えなかった。わたしは「投手」として彼に認められたことがうれしくて、すぐさま枝をレトリーブして湖に投げた。わたしも彼もレトリーバーだった。

枝投げが一段落すると、彼はおもむろに両手で浜を掘り出した。黒い手が白い砂に、何度も何度も吸い込まれていく。掘り進んでいくと瓶の破片があったので、彼がケガしないように瞬時にわたしが拾った。瓶を!ここに!捨てるなよ!捨てた奴は今後一生、瓶にまつわる呪いにかかれ(たとえば、F1で優勝したのにシャンパンの栓が抜けないなど)!と怒りに震えていると、わたしは彼の視線に気づいた。彼は両手を止めて、じっとわたしを見つめている。「あんたも掘れ」という意味にしか思えなかった。わたしはそれを受け止め、無言で穴を掘った。爪の間に砂のはさまった自分の手が、すこし誇らしかった。彼の手も砂まみれだった。

そろそろ浜遊びも終わりである。村井さんが彼にリードをつけ、一行は駐車場に向かった。途中、わたしにリードを任される場面があった。どの年代でも標準より上の体重をキープしてきたわたしにとっても、彼の体重とパワーは驚くべきものだった。膝を使わねば腰がやられる、と本能的に危険を察知するほどだった。

今晩の夕食を村井さんのお宅でいただくことが、車中で決定した。まずは浜からお宅に向かい、そこでハリー君を下ろしたあと、二人でスーパーに行った。

ありていのことを言ってしまうが、人生は不思議なものである。ほんの少し前まで本の中、もしくはパソコンやiPhoneの中にあった「村井家」という世界に、いまや無遠慮と言えるほどに足を踏み入れている。しかもその足元は、浜の砂まみれのクロックスだ。誠意をこめて入り口で落としたものの、それでも足から店内にこぼれる砂を申し訳なく思いながら、わたしは地域密着感の強いスーパーでの買い物を楽しんでいた。

帰宅した二人を、ハリー君が出迎えてくれた。わずか数十分間の別れであったが、改めて驚くほどにでかい。すでに帰宅していた息子さん二人との挨拶を済ませると、わたしは村井さんが淹れてくれたコーヒーを飲んでくつろいだ。

恐れ多くもわたしが村井さんと翻訳談義をしていると、(おそらく『人喰い』の話をしている途中で)彼が村井さんのもとに近づき、吠えだした。なかなかの音量である。これまでの人生であまり犬と接してこなかったわたしにとっては、軽トラのクラクションくらいの音量に聞こえた。どうやらお腹が空いたらしい。村井さんがエサを出すと、彼はバクバクとそれを食べた。

満腹になったらしいハリー君がベランダで寝はじめたので、起こさないようにそっとその手に触れてみた。浜を掘り、地を駆ける。そんな彼の暮らしの蓄積が、皮膚の硬さから想像できた。

夕飯はベランダで焼肉だ!ビールとコーラという飲み物の違いはあるものの、32歳の当時無職も、10代の中学生二人も同じくらいテンションが上がっていた。最初は得体の知れない大人(森さん?翻訳?なにしに来たの?)に恐れをなしていた彼らも、わたしが『スプラトゥーン2』やゲームの課金問題について話すと少しずつ気を許してくれた。わたしが大人の役割、「この肉はもう食えるよ」係をこなしていると、足元のハリー君がもぞもぞと動くのを感じた。満腹のはずだが、談笑に混じりたいのだろうか。

夜風と蛙の鳴き声に包まれながら、わたしは焼肉と白飯を食べていた。ベランダの端では、先に食事を終えたご長男がハンモックに揺られている。「滋賀県」というよりは「天国」にいるような感覚に浸っていると、ご主人が帰宅した。数々の編集者を酔わせてきた、飲ませ上手のご主人である。

「お酒はほどほどに」という自戒が楽しい空気にかき消され、我を失わない程度に順調に酔い進めていると、ハリー君がわたしの膝に顔と両腕を乗せてきた。「認めてやるよ」という意味なのか、彼はわたしの手を舐めた。

浜で遊んでいたとき、彼は歯をむき出しにして枝を噛んでいた。枝がボロボロになるほどの強さで口を動かしていた。いま彼はその口で、わたしの手を傷つけないようにやさしく舐めていた。心を感じずにはいられなかった。

電車やホテルのことを考えると、そろそろ帰らなくてはいけない。わたしは村井さんの運転で最寄り駅まで送っていただくことになった(そんなご親切な村井さんの最新訳書『サカナ・レッスン』は絶賛発売中)。ご主人と息子さんに別れの挨拶をし、家を出ようとすると、なにかを察知したハリー君もついてきた。

駅までのドライブ中、わたしは彼の背中を見ていた。自然の闇に包まれた街の風景が、彼の黒さを強調していた。琵琶湖旅は始まったばかりだが、彼とは、村井さんとはここでお別れである。出会いと別れが同じだけある、それが旅なのかなと柄にもなく感傷的になっていると、車が駅に着いた。

再会の約束を村井さんと交わして、車を降りた。彼とは言葉を交わせなかったので、背中をなでることでそれを伝えた。車が出発し、遠くに点となって消えるまで、わたしは手を振った。

「京都方面に乗ってね」という村井さんの言葉を思い出しながら、わたしはホームに向かった。人工的な蛍光灯の光が、すこしだけ酔いを醒ました。

次回の更新は、6月22日土曜日です。

#琵琶湖旅情編




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