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鹿野に「改宗」を迫った話

後悔していたことがあった。「あった」というのは過去形ではなく、最近わかった、ということだ。「こんなところに抜け道があったのか!」の「あった」である。

通勤経路にTシャツ屋がある。正確に言えば、オリジナルTシャツ屋。部活やサークルのメンバーが士気を高めるために着る、オリジナルのTシャツを発注できる店である。いま思うと、毎日そこを通るたびにすこしずつ、わたしの記憶がくすぐられていたのだろう。そしてある日突然に記憶が目覚めた。目覚めなくてもいい記憶だった。わたしは高校生のとき、鹿野に改宗を迫ったのだった。

鹿野というのは仮名である。ついでに仮名をもうひとつ創造するなら、わたしは十数年前、三重県立の波瀬高等学校に通っていたことになる。

これは自慢だが、わたしは波瀬高の特進クラスの一員だった。偏差値は他クラスより五つは違う。毎年一人以上は東大か京大に現役で受かっている。特進クラスには大きな特徴があった。三年間クラス替えがないのだ。

だからよほどの猛者をのぞけば、初顔合わせは緊張の舞台だった。ここでしくじれば三年間引きずるのだ。誰もが中庸であろうとし、初対面にはふさわしくない話題を避けた。さすがに勉強ができる連中だ。クラスメイトたちはさしたる問題もなく、初日の終わりにはゆるやかにグループを形成していた。ただ鹿野だけが中立を保った。それは浮いているというより、独立心の現れのように思えた。

鹿野は基本的に一人だった。周りの誰もが、彼は一人でいたいのだろうと解釈した。とくに嫌われてもいなかった。それで問題がなかった。受験という個人技をゴールとして集められた集団だから、とくに群れる必要はなかった。それに特進クラス特有なのか、それとも学校全体の空気なのか、後に「カースト」と呼ばれる了解もなかった。女子のスカートには長短があったが、それは違いであって差ではなかった。

そして地球は周り、試練の季節が訪れる。クラス対抗合唱コンクールである。波瀬高は妙に合唱コンクールに力を入れており、その会場は体育館ではなく駅前のホールだった。大人の熱は子供にも伝わり、全体的に勉強のできる生徒たちは、勉強時間を削ってまで合唱の練習に打ち込んだ。そしてその「打ち込み」を加速させるのが、クラスTシャツである。

一年か二年か三年かは忘れた。とにかくある年のクラTのデザインが決定し、サイズの集計をすることになった。いま思うと女子への配慮が足りないとは思うが、教室の後ろ側に貼られた「S」「M」「L」というコピー用紙に、各自が名前を書いていくシステムだった。鹿野はたぶんLに名前を書いていた。クラT係だったわたしは、そのことを記憶している。

数週間後、Tシャツが業者から届いた。その日のホームルームで配布することになり、わたしは「Sのひとー」「Mのひとー」などと発しながら、軽快にクラTを配布していった。が、問題が起きた。一着余るのだ。おかしいと思いながらサイズ表を眺めていると、鹿野が受け取っていないことがわかった。わたしは、なぜか配布中ずっと机につっぷしいていた鹿野のもとに向かった。「鹿野くん、これ……」わたしが遠慮がちに鹿野を呼ぶと、彼はこう言った。

「押し売り反対!」

わたしはなにが起きたかわからず、数秒ほど固まった。だがすぐに頭を回転させ、「だってサイズに名前書いてあるやん」と論理的に反駁した。だが鹿野は机につっぷし、両手のひらを気功のようにこちらに向けたまま、「反対!」と言うばかりだった。そのうちに心やさしい担任がわたしのもとに来て、「大丈夫、先生が買うから」と言ってくれた。

結局鹿野は、ひとり制服で合唱コンクールに参加した。当時はもちろん、そんな鹿野をみんな白い目で見ていた。他クラスからも「なんやあいつ」という声が相次いだ。

大人になったいまこそ、鹿野の気持ちは理解できる。鹿野は本当に、クラTを着たくなかったのだ。クラスメイトを傷つけたいわけでもなく、担任に迷惑をかけたいわけでもなく、ただ単にクラTを着たくなかっただけなのだ。

あのとき「だってサイズに名前書いてあるやん」と言ったわたしは、どういう気持ちだったのだろうか。集団の和を乱す異分子を懲らしめたいと思っていたのではないか。多数派を背中につけていることを確信できて、気持ちよかったのではないか。

そんなことに怯えながらわたしはでも、だったら鹿野は名前を書くべきではなかったと思っている。

次回の更新は10月10日(土曜日)です。


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