一軒家の解体の話

まずは、引用から始めたい。引用元を明記しないのが最近の流行だと聞くが、あえて流行に乗らないこともかっこいいことなので、ページまでしっかり明記したい。ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳『サピエンス全史(上)』の43ページに、こんな記述がある。

「近代国家にせよ、中世の協会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中に存在する共通の神話に根差している」

ハラリは、神や霊だけでなく、人権や法律も想像の産物だと言う。つまり、人間の頭の中にしか存在しないものだと。

この部分を読んでわたしが思い出したのは、『イムジン河』の歌詞である。南北朝鮮の分断を嘆くこの歌詞のなかで、水鳥たちは国境などないかのように両国を行き交っている。

話が急旋回するが、わたしは「一軒家の解体風景」がたまらなく好きだ。ビルもアパートもいいが、一軒家が至高である。最もプライベートな建築物だからだ。

人の家に勝手に入るのは、普通に犯罪である。当たり前だ。引用元を明記しない引用が流行していても、こちらはその兆しがない。知人や友人の家でも無断で入ろうとしたら相当に怒られるのに、ましてや何の知り合いでもない人の家に、ただ散歩コースの途中だという理由で闖入することは絶対に許されない。小学校の校庭に犬が入ってくるのは「許される闖入」であるが、あいにく犬ではないわたしは、校庭に一歩足を踏み入れた時点で通報されてしまう。

話がそれてしまった。つまり、渡辺篤史でもない限り、「この家の中を見てみたい」という願いは叶わないということだ。

だが、解体は別だ。家主にとってもはや「家」ではないその物体の壁が、重機で剥がされる。いままで見ることの叶わなかった中身が、白日の下に晒される。もちろん住人や家具の姿はないものの、トイレの壁面のタイルなどから、暮らしの残り香が漂う。

こんな光景を見るたびに、毎回不思議に思う。この物体はいつ「家」でなくなったのだろうか。

解体は一瞬では終わらないから、物理的な、地面の上での変化は緩慢なものだ。重機が入って二日目くらいなら、まだ雨風がしのげ、「住む」ことは可能に思える。

その一方で、法律の上では、つまり人間たちの頭の中ではスピードが異なる。「はい、じゃあこれは『家』じゃないということで」という認識が家主や解体業者や役所のあいだで共有された瞬間、この物体は『家』でなくなる。

他人が路上から見ていても許されるのは、地面の上というより、法律の上での問題だと思う。たとえば解体ではなく、部分的なリフォームであったらどうなるだろうか。

そんなことを考えながら、途方に暮れるのがたまらなく楽しいのだ。この快楽は、サピエンス以外は理解できまい。

次回の更新は11月27日火曜日、正午です。

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