弱いまま生きる話

なんだかもう、ぐったりしている。フジロックの延期がじわじわと効いてきている。なにをそんなフェスの延期くらいで、とわたしの理性は宣っているが、これはいわば最後の一滴だったのかもしれない。え!?と思うほどに小さいカフェのエスプレッソのカップであれ、韓国の田舎町で何十年も使われているキムチ用のでっかい壺であれ、最後の一滴で表面張力は臨界点を超え、ふちから水が溢れ出す。

トンネルを抜けるとトンネルであった、という気分だ。『雪国』の舞台、湯沢温泉で開催されるはずだったロックフェスティバルは中止になった。なんとか春を生き延び、梅雨を耐え忍んでも、いつもの夏はやってこないのだ。

こんなことにやられてしまう自分は、たいそう「弱い」のだと思う。かすり傷で死ぬことはないが、どんな服を着てもその傷が目に入る。歳なのか、疲れているのか、意外にその傷は治らない。それは十分につらいことだ。

ここで道が分かれる。ある人は「別に死ぬわけじゃないんだし」と強くなろうとする。そしてある人は(わたしも含めてだが)、あえて弱いまま生き延びようとする。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけではない。ただわたしは、後者を選びたい。なぜならそのほうが人間らしいと思うからだ。この道を選び、轍を作れば、弱いまま生きられる人が増えると思うからだ。

トンネルはいつか終わるんだ、という言葉は聞きたくない。わたしはただ、休みながらも歩きたいだけだ。

次回の更新は6月13日(土曜日)です。

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