リカバリーに差が出る話

どう表現しようとも上品さが出なくて困っているが、なるべく抽象的に表現しようと思う。わたしは今春、人前で「解禁」してしまったのだ。努力も虚しく、という言い回しがぴったりだろう。帰省中の家族との外食の帰り、異常に酒が回ってしまったわたしは、助手席に座ったまま解禁してしまったのだった。

みなさんは、大人になってから解禁したことがあるだろうか。もちろん鮎漁のことではない。解禁。身体の不調が原因であるのに、とかく「情けない」という目で見られてしまうのが解禁である。誰も禁を解きたくて解いているわけではないのに、自己責任という概念で糾弾されてしまうのが解禁である。行き過ぎた新自由主義の弊害であろう。

大学を出ていても、本を出したことがあっても、自活できるほどの収入があっても、解かれるときは解かれる。都心に住んでいても、MacBook Airを持っていても、解かれるときはもう、「これが生きものの本質だ」とばかりに解かれるのだ。ならば解かれたわたしは「人間」を捨て、口から肛門までの一本の管としての実存を受け入れ、トイレで泣き寝入りするしかないのだろうか。

答えはもちろん、否である。解かれたものはしかたない。時間を巻き戻すことは不可能だ。だとすれば問題は、この状態からいかに迅速かつ確実に復旧するか、である。知恵や経験や広義の「学力」は、解かれる前ではなく、解かれたあとの行動で発揮されるのだ。

あのときのわたしは、かなり冴えていた。いや、解かれた時点で「サエないやつ」なのだが、それをカバーして余りあるほどの知性の輝きを見せていたはずだ。自身はコンビニのトイレに立てこもりながら、外に立つ父親に「ゴミ袋を用意して」「替えのパンツを買ってきて」などと的確に指示を飛ばし、それらが準備される間に着々とトイレ内の復旧作業を進める。買ったばかりのディッキーズの短パンを泣く泣くゴミ袋に入れると同時に、新しい短パンを買うための貯金の計算をはじめる。この頭の使い方は、もはや「仕事」と言えるだろう。しかしわたしはビジネスライクにはなりきらず、ゴミ袋もパンツも買ったのだからこの店のトイレを使う権利は十分にあるとわかりつつも、このコンビニチェーンを応援しよう、東京に帰ったら利用頻度を高めようと心に誓うのだ。

負けたら終わりなのではない。むしろ、負けてからがはじまりなのだ。惨憺たる状況のなかで、それでも光を見失わずに、一歩一歩前に進んでいくあなたは「一本の管」ではない。「一人の人間」である。ファミリーマートでは10月14日まで、中華まん100円セールを実施中である。

次回の更新は10月19日土曜日です。

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