友人の女子と気まずくなった話

Oという女子とは、もともと仲が悪かったわけではない。同じクラスになったのは中学二年のときだけだが、その後も同じ塾に通っていたこともあり、気軽に挨拶をし、適当な会話をする関係を築いていた。絶対に関係が発展しないだろうという安心感があった。彼女が「美人」ではなく「元気」というキャラクターを担っていたことが、わたしには不思議だった。

中学からはすこし遠い、田舎にとっての都市のような場所にその塾はあった。塾内のグループは中学がもとになっていて、わたしは同じ中学の男子ふたり、女子ふたりと五人組でつるむことが多かった。女子のうちひとりがOで、もうひとりがその中の男子と交際をはじめた。その男子はわたしではない。

わたしたち五人組は、全員で同じ高校を目指し、全員で合格した。発表後、塾主催の合格パーティーのようなものがあり、きっとそこで労をねぎらいあったはずだ。「はずだ」としか言えないほど、わたしはこのパーティーのことを覚えていない。いつも気さくで鬱陶しかった講師がクイズ大会の司会をしていて、わたしが知恵熱の語義について誤答したことだけは覚えている。人間、覚えておきたいことを覚えていられるとは限らないのだ。

高校に入ってからわたしは、過剰に女子を意識しだした。その意識は「モテたい」とか「嫌われたくない」というよりも、「女子が女子であることを過剰に重く受け止める」という方向に向いた。気軽に接することが難しくなったのだ。

いま思えば、視覚的な変化も大きな原因だったのだろう。中学の制服はジャージだった。「極限までださくすることで、血気盛んな若者の反抗心の芽を摘もうとしている」という噂まで立った(提唱者はわたしだ)、男子は紺の、女子はエンジのジャージだったのだ。それが高校になると召し物はブレザーに変わり、女子たちはスカートから膝を出した。生活指導の努力もむなしく、女子たちのスカートは夏至前の夜のようにどんどん短くなっていった。夏の日のような生足がまぶしかった。

わたしがそうやって健全に不健全化するにつれ、Oとの距離も広がっていった。わたしはクラス替えのない専攻だったが彼女はそうではなく、同じクラスになることはなかった。だから学校行事や行き帰りの駅でしか会わないのだが、少しずつ、だが着実に、二人の間の気まずさは大きくなっていった。

具体的なきっかけはない。喧嘩をしたわけでもない。原因はわたしの感情でしかなかったはずだ。

もしかするとわたしは、「女子」として彼女を見る自分の視線がいやになったのかもしれない。彼女の太ももや胸のふくらみに目を奪われてしまう自分のことが、気持ち悪くてしかたなかったのかもしれない。気の置けない友人関係に「性」が侵入してきた。二度と得られないものが不可逆的に破壊された。彼女に向ける顔がなくなった。そう思ったのかもしれない。もしくはわたしは、彼女のことが好きだったのかもしれない。

いまとなってはよくわからない。もう15年近く前の話で、当時の感情も、知恵熱の語義ほどにははっきりと覚えていない。しかしなぜかわたしには、これ以上は忘れないという予感がある。

次回の更新は9月21日土曜日です。

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