桂枝雀の話

手元の『明鏡国語辞典 第二版』で「さみしい」を引くと、こう記述されている。

⇨さびしい

この記述の寂しさにやられそうになるが、ぐっとこらえて「さびしい」を引く。二番目の語義はこう記述されている。

寄り添うものがあってほしいのに、それがなくて孤独な気持ちである。「君がいなくて僕は―」

端的かつ、詩情あふれる語義だ。編者をそっと抱きしめたくなる。こんな風に、思わず例文の「僕」と編者を同一視してしまうほど、この季節は人を寂しくさせる。

落語というものに興味を持ったのは、中学二年生のときだ。

『笑芸人』という雑誌で脚本家・宮藤官九郎が特集されており、彼のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』に強い衝撃を受けていたわたしは迷うことなく購入した。その号の巻頭特集が、刊行の前年に亡くなった落語家・古今亭志ん朝だったのだ。正直、中二には理解の及ばない世界だったが、「落語はすごい芸能らしい」という薄い情報が頭に刻まれた。

それから数年が経ち、薄い情報が刻まれた状態でドラマ『タイガー&ドラゴン』が始まる。脚本は宮藤官九郎。ひょんなことから落語界に足を踏み入れたヤクザが、古典落語のあらすじにそっくりの事態に見舞われるという設定である。この作品のおかげで、「落語はおもしろいらしい」という情報が頭に刻まれた。

そこから事態は進展せず、つかずはなれずというべきか、「好きといえば好き」程度のうっすらとした興味が持続していた。桂枝雀という落語家に出会ったのは、たぶんその頃だと思う。

彼の落語は、わたしがいままで観てきたものとまったく違った。それまで江戸落語ばかり見てきたせいもあり、落語とは基本的に「粋」や「人情」を表現するものであって、笑いは最優先されないと勝手に思っていた。しかし彼の落語は、すべての要素が笑いに向けられているのである。彼が目指すのは「粋」の範疇の穏やかな笑いではなく、腹の底からの爆笑である。

しかし、たった一人で観客と向き合い、割れるような爆笑に包まれている彼の姿は、どこか寂しそうなのだ。自分の一言で大爆笑を呼ぶ。これ以上の「承認」はなかなかないはずなのに、わたしは彼の目に、表情に、たたずまいに、漏れ出る寂しさを感じてしまう。

ここからはまったくの想像である。

彼はおそらく、笑い声が消える瞬間を聞きたくなかったのではないか。その瞬間の寂しさを避けるために、落語を爆笑で埋めたのではないか。観客の笑い声のなかにいるときだけ、彼は生の実感を持ったのではないか。

すべては想像でしかない。間違っていたら申し訳ないと思う。それでも彼はこれからも、わたしを爆笑させてくれるはずだ。

もう亡くなってしまった彼とは、映像や音源のなかでしか会うことができない。わたしはそれが、とても寂しい。

次回の更新は11月29日木曜日、正午です。




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