コスプレの話

コスプレの快楽の本質は変身そのものではなく、いつでも普段の自分に戻れるという余裕にある。これは数年前に行われたコーネリアスのライブの、物販を宣伝するチラシに書かれていた文言だ。現物がないので正確な引用ではないが、大意ははっきりと覚えている。これは詩ではなく、当日会場で売られていた、バンドメンバーとお揃いのシャツを紹介するためのキャプションにすぎない。それにも関わらずこの一文は、わたしの頭にこびりついて離れないのだ。

ここで『シェンムー』の話をしたい。1999年に発売された、伝説的なゲームソフトである。人口比で言えばかなりのレアケースと思われるが、「シェンムーのネタバレだけはどうしても避けたい」という方にはここでページを閉じていただきたい。

では、『シェンムー』とはどんなゲームなのか。要約すれば、「武道家である父親を目の前で殺された男子高校生が、復讐のために香港に向かう」ゲームである。劇中で主人公は、非協力的な住民たち相手に商店街で聞き込みをしたり、バ―で米兵に絡まれて駐車場で乱闘騒ぎを起こしたり、心優しいお手伝いさんにもらったお小遣いをスロットで消費したりする。それら様々なアクティビティのなかで、わたしが最も楽しんだのは港湾での労働だ。

労働。こんなに細いゴシック体で書かれたものを目に入れただけで、つらみが骨身に染みてしまうほどに強力な二文字だ。「仕事が楽しい」と言う人はいても「労働が楽しい」と言う人はいない、まったくオンラインサロンみのない言葉なのだ。そのなかでも港湾での労働は、労働のなかの労働だろう。その証拠に、活動内容に「港湾での労働」を挙げるオンラインサロンなど存在しない。

しかし、ゲーム中の労働は楽しいのだ。フォークリフトに乗り、外に置かれた荷物を持ち上げ、倉庫まで移動し、指定の枠内に置き、そしてまた荷物を取りに行く。必要なことを淡々とやり続けるこの快楽は、一定のリズムで繰り返されるミニマルな音楽を聴いているときのそれに似ている。昼休みには無骨な仲間たちと無言で弁当を食べ、また作業に戻る。日が暮れた頃に作業を終え、事務所に戻り、一日分の給料を取っ払いでもらう。ノルマを達成したわたしに、給料のアップが親方から告げられる。よし、明日もがんばるぞ、という気になる。

言うなれば、これは労働のコスプレなのだと思う。わたしは港湾労働者の服を着る代わりに、港湾労働者の心、そのなかでも楽しいものだけをいいとこ取りして着ているのだ。画面内の彼らは寒波や潮風に耐えているが、わたしは家でぬくぬくと過ごしている。彼らと違ってわたしには、フォークリフトで事故を起こす危険性もない。わたしはゲームを通じて、自分の存在の確かさや、身の安全を楽しんでいるのかもしれない。

一般的な意味でのコスプレも、同じように「いいとこ取り」なのだろう。アニメやゲームの登場人物になりきるとはいえ、その人物の苦悩を背負うことまではしない。高校生の制服を着たところで、毎週月曜日の英単語テストに苦しむわけではない。

以前に、わたしが女性誌を読むのは「精神の女装」なのだ、ということを書いた。ゲームも同じようなものだと思う。わたしには、というか人には、たまには自分以外になることが必要なはずだ。

ああ、いい天気だ。働きたくない。ゲームのなかでだけ働きたい。

次回の更新は1月22日火曜日、正午です。

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