寂しい寂しい『FYRE』の話

Netflixオリジナル映画である『FYRE』が、SNS上で話題になっている。2017年に開催され、大失敗に終わった音楽フェスの内幕に迫ったドキュメンタリーである。今日はこの映画から感じた寂しさについて、結末に触れることなく書いていきたい。

調子こいてる金持ちやインフルエンサーたちがひどい目に遭うーー。ツイッターで散見される同作の感想やあらすじから、わたしはそんな内容を期待していた。しかし、「金持ちやインフルエンサーがひどい目に遭うところ見るぞ」と息巻いていたわたしが目にしたものは、そんな浅はかな視聴者の想像を超えた、孤独な人間の姿だった。

『FYRE』は、問題となった音楽フェスの名前でもある。若者向けクレジットカード事業で成功を収めていたビリー・マクファーランドは、ラッパーであるジャ・ルールと協力してスマホ用アプリを世に出す。有名アーティストをホームパーティーに簡単に呼べる、というそのアプリの宣伝のために、二人が企画したのがこの音楽フェス「FYRE」である。

『ドラえもん』で例えるなら、ビリーがスネ夫、ジャ・ルールがジャイアンである。ただしのび太はおろか、なんでも解決してくれるドラえもんも存在しない。ビリーとジャ・ルールはただ、現実に置きた問題を、現実的に解決するしかなかったのである。

話を戻そう。音楽フェスどころか、コンサートを運営した経験もないビリーの舵取りはひどいものである。ジャ・ルールやスーパーモデルたちと遊ぶだけ遊んで、まともに指示を出さない。能力がないなら金だけ出してプロに一任すればいいものを、彼は責任感からか、能力の過信からか、それとも寂しいからか、やたらと口を出して計画をめちゃくちゃにする。予算はオーバーし、部下の疲弊は蓄積する。投資家の信頼は失われ、メディアからは疑いの目を向けられる。それでも彼は、自分に歯向かう部下をクビにしながら、フェス実行に向けて突き進むのだ。

同作でビリー・マクファーランドは、常に寂しそうな目をしている。スーパーモデルたちと海辺でビールを飲んでいても、タンクトップ姿でジェットスキーに乗っていても、どこか心もとない雰囲気を醸す。様になっていないジャケット姿で「仲間」たちと写真に映る彼を見ていると、女性と肩を組んで記念写真を撮るときに、肩から手を浮かせてしまうオタクたちを思い出した。近づきたいけど、近づけないのだ。

これは感情的な見方かもしれないが、ビリーは単に「イケてるグループに入りたかった」だけなのではないか。詐欺の意図どころか、儲けてやろうとすら考えていなかったのではないか。カード事業で巨万の富を築いても、心の空白は埋められなかったのではないか。「本物のイケてるやつ」であるジャ・ルールに、なんとか近付こうとしたのではないか。スーパーモデルなどのインフルエンサーに、ビジネスという形でもいいから承認されたかったのではないか。クラスのイケてるグループに入りたくて、お金で彼らを釣るボンボンの学生と同じなのではないか。

「承認」なんてものは、欲しいけど手に入らないのではなく、手に入らないから欲しいのだと思う。ビリーがそう思っていれば、おそらくこんな事件は起こらなかったのだ。

次回の更新は1月31日木曜日、正午です。


励みになります。