退院の話

中二のときに学校の階段から転落し、脚を骨折して入院したことは以前に書いた。今日は別の側面から、この出来事を振り返ってみたい。

そこらじゅうに脛をぶつけながら、曲がりなりにも32年近く生きてきた。そのなかで、「今が人生のピークかも」と思えるほどに心躍る瞬間がいくつかあったが、退院はそのひとつだ。

あくまで、退院である。入院そのもの、とくに手術完了まではつらいものだった。初めての手術に怯えるだけではなく、突然に日常から隔絶されてしまった、この状況そのものに怯えた。冷静さを欠いていたわたしは、もう二度と娑婆には戻れないのではないかと絶望した。何事もなければ入院期間は二週間の予定だったが、何事かが起こるんじゃないかという懸念はしばらく消えることがなかった。

しかし、手術が無事完了し、毎日のリハビリにも慣れてきたあたりから、目に入る景色に色彩が戻ってきた。同室の患者たち(全員おじさん)との談笑を楽しみ、親にもらったお小遣いで売店で「ファミ通」を買って喫茶室で読んだ。車椅子に乗って院内を探検するうちに運転技術が向上し、内輪差を意識できるようになった。何より、見舞いに来る両親から緊張感を感じなくなった。

親からしてみれば、心配でしかたなかっただろう。とくに「息子が階段から転落した」との報を受けたときの心情は、察するに余りある。「階段から」と「転落した」の語順はおそらくこうだったと考えられるが、もし逆だったら心臓が止まりそうになっただろう。日本語の文法に感謝したい。

これはわたしの勝手な想像だが、手術が終わり、順調に回復に向かっているわたしを見舞いに行くことは、両親にとってある種の「祭り」だったのではないか。退院というハレの日に向かって数日間行われる、前夜祭のようなもの。症状が骨折だったため、食べ物の差し入れに制限がないのも祭感を加速させる。母親が勝ってきてくれたケンタッキーのチキンポットパイを、病室中に匂いを撒き散らしながら食べたこともある。もちろん、病院が出す夕食を食べたあとだ。

しかも、わたしの退院に合わせて、当時まだ和式だった自宅のトイレが洋式のウォシュレットに改造された。東京五輪に合わせて首都高が建設されたのと、まったく同じ構図である。車の流れとトイレの水流をかけて上手いことを言いたかったが、今日はあきらめる。

もちろんわたし自身にとっても、退院は祭りであった。日に日に入院生活をエンジョイしはじめ、逆に「看護師さんや同室のおじさんと別れるのがさみしい」とすら思っていた。エンジョイっぷりを表現するために告白するが、わたしは祖父に買ってもらったテレビカードを消費して、夜な夜な『水着少女』という番組を観ていた。叶わぬ願いだが、絶対に番組名を検索しないでいただきたい。

退院したのは、昼になる前だったと思う。同室のおじさんたちや、世話になった看護師さんへの挨拶を済ませ、わたしは病院の入口に向かった。猛烈に暖房がかかった病院内とはちがって、11月の外の世界は冷たかった。しかし鼻の奥にツンとくる生きた冷気を感じたとき、祝福された気分になった。

次回の更新は1月18日金曜日、正午です。



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