『絵画のゆくえ2019』の話

先週の土曜日、『絵画のゆくえ2019』に足を運んだ。これから活躍が期待される作家11名の近作・新作が約100点展示される企画展だ。わたしの来訪の主な目的は、拙訳『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』の装画を描いてくださった仙石裕美さんの作品を鑑賞することだった。

わたしが適当な業界人なら、他の作家をすっ飛ばして彼女の作品だけを鑑賞して、「最高でしたよ〜」などと薄い感想を彼女に述べ、「また仕事しましょ〜」などと言って茶を濁すところだ。しかし元来真面目なわたしは、隅から隅まで、途中で疲れてソファに座り込むくらいの集中力で、すべての作品を鑑賞したのだった。

最初に断っておくが、わたしに絵画の専門知識はない。岩絵具がどう作られるのかも知らない。「版画」と言われて真っ先にイメージするのはナンシー関だ。

そんなどこまでも浅い、潮干狩りに適した遠浅の海のようなわたしの審美眼を通じても、美しいと思える作品がいくつもあった。

仙石さんの描く絵は、とにかく色が雄弁だった。青・緑・ピンク、その他様々な色がそれぞれ強烈な存在感を放ちながら、一枚の絵全体で調和を見せている。対象と背景、もしくは対象と対象の境目にはっきりとした線がなく、色と色の境目がその役割を担っている。線が見えないことで、この絵が人の意思で「描かれた」ものではなく、色たちが自然に混ざり合い、せめぎ合い、譲り合うことで絵に「なった」かのように見える。

彼女の絵を文章に「翻訳」する力がわたしにはないので、ぜひ実物を観ていただきたい。ただでさえ、絵画から文章ではlost in translationが多すぎる。

彼女の作品は主に油絵だったが、会場には様々な種類の絵画が展示されていた。具体的なイメージの木版画、顔料で描かれた抽象画、ボールペンだけで描かれた東京の風景……。あらゆる絵画に触れていくうちに、ある思いがわたしに宿った。

基本的に、絵を描く前のキャンバスは真っ白なのだ。そこに絵の具の一滴や鉛筆の一点が加わることで、白は白でなくなり、「絵画」になる過程を進むことになる。つまり、「無」と「絵画」の境目があるということだ。わたしはこれをうらやましく思った。(詩はともかくとして)散文には、おそらくそんな状態はないからだ。

その境目を超えるとき、画家たちはどんな気持ちなのだろう。彼らの心の中では、絵を「描いている」のか「描かされている」のか、それとも絵が勝手に「描かれていく」のか、どんな風に見えているのだろう。

いつも楽しそうにして笑顔を絶やさない仙石さんを見ていると、そのような気持ちはともかく、絵を描くのがとにかく楽しいんだろうなと思う。それも含めて、本当にうらやましい。


次回の更新は1月24日木曜日、正午です。

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