唐突なゴリラの話

近所を散歩していると、幼稚園の方から歌が聞こえてきた。
「いち にい さんまのしっぽ ゴリラの息子…」
男性教諭の朗らかな歌声だった。子どもの頃から何度も耳にしていた歌だが、そのとき突然、わたしは気づいた。ゴリラが唐突すぎると。

「数え唄」であるから、「1、2、3、4……」と数えることが目的なのだ。「数えたい」という意思を貫徹しようとするとき、秋刀魚の尾は合理的な選択に思える。季節ものではあるが、手に入りやすい。スーパーに行けば数百円で買える。尾以外は焼けば美味しい。

「数えられればOK」という高さのハードルに向かって、秋刀魚の尾は高すぎず低すぎず、ほどよい跳躍を見せる。例えば語呂が合っていたとしても、「惨禍の宿命」では重すぎて跳べないのだ。「し」を数えるとき、「しゅ」はルール違反という説もある。

そこでゴリラである。「そこでゴリラである」というのもよくわからないが、いくらなんでも唐突すぎやしないだろうか。

秋刀魚の尾の長所と比較してみよう。ゴリラは季節ものではないが、手に入りにくい。スーパーに行っても買えない。数えてしまえば食べておしまい、ではないから、責任を持って飼育しなければならない。当然、素人の手に負える生き物ではない。「息子」とあるように、オスだから腕力もあるだろう。

つまり、秋刀魚の尾と子どものオスゴリラは、属性から何から全く違うのである。例えば、歌詞の内容をパワーポイントで説明する機会があったとして、「さんまのしっぽ」の写真のあとに、「ゴリラの息子」の写真が大画面に表示されるさまを想像してほしい。唐突だ、と聴衆の誰もが思うのではないか。それに、そんな機会は一生訪れないのではないか。

「数えられればOK」のハードルを、ゴリラの息子は過剰に越える。「たしかに数えられてるけど、そこまでしなくても…」という大観衆の冷たい視線の中、ゴリラの両親は誇らしげに国旗(どこの?)を振るのである。

この唄はそのあと、「菜っ葉 葉っぱ 腐った豆腐」とつづく。やはり、ゴリラだけが浮いている。

次回の更新は10月30日火曜日、正午です。


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