嫌いな人の話

一度会ったら友達と、毎日会ったら兄弟と思え。これはかつてNHKで放送されていた『ドレミファ・どーなっつ!』という人形劇の、オープニングテーマで歌われた教義である。わたしは就学前後の幼少期、平日は毎日テレビの前でこの教義に耳を傾けていたのに、いまだにこのドレミファ主義を徹底できていない。

わたしはある人を嫌っている(あなたではない)。出会った頃からいままで、会うたびにその度合いが増していく。嫌いなところは無数にあるが、それが嫌いな原因なのかはわからない。

できることなら、誰のことも嫌いたくない。『ドレミファ・どーなっつ!』の登場人物・そらおのように、一人称を「おら」にして誰とでも仲良くしたい。

誰かを嫌っているという状態は、自分としても寂しいものだ。その人のことを好きになろうと、いいところにだけ目を向けたりして努力を積み重ねたが、まったく実を結ばなかった。それどころか、「こんなにいいところがある人を好きになれない自分」を発見して落ち込むだけだった。

だから無理。もう無理。そもそも、人を「好きになろう」とすることに無理がある。だからこれからは、「なるべく会わない」「嫌いだということは隠す」「人格は尊重する」の三本柱でなんとか茶を濁しつづけていきたい。

さてここで、宗派を分裂させたい。もしかすると前述の教義の趣旨は、「友達や兄弟と思え」ではなく「友達や兄弟として扱え」ではないのか。本音ではなく建前のフェーズで、互いの人格を尊重せよということではないのか。心の内でどう思っていようと、作り笑顔でもいいから他者を包容せよということではないのか。

文章から若干の「セミナー」臭がしてきたが、間違ってはいないと思う。

本音を重視しすぎた結果がトランプ大統領の誕生なら、そんな本音に価値はあるのか。「食べたい」「やりたい」「自分だけ得したい」という本音は、いわば全裸である。そこに下着を、ヒートテックを、(ただのわたしの好みであるが)女性ならキャメルのコートにブーツを身につけて外に出て(男は好きにしてくれ)、別け隔てなく「ごきげんよう」と笑顔を見せるのが人間の美徳ではないのか。

キャメルのコートうんぬんはともかく、おらはそう思うのだ。

次回の更新は12月3日月曜日、正午です。



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