【歳末お悩み相談ウィーク】悲しめない話

今週一週間は「歳末お悩み相談ウィーク〜今年の悩み、今年のうちに〜」と題して、皆さんから事前に頂いたお悩みに回答していきます。

私は半世紀生きてきましたが、母が亡くなった時も、弟が孤独死した時も、夫が脳の疾患で倒れ寝たきりになっても悲しくなりませんでした。子どもが私より早く亡くなったとしても泣かないような気がします。私自身の命の灯が消えそうになったときだけ恐れおののくでしょう。こんな想いは人としてどうなんでしょうか?誰か聞いてくれる人いるのでしょうか?

まず、「悲しめない私」を責めるのはやめましょう。たぶん、責めても何も好転しません。

あなたはご自身のことをを「冷たい」ととらえているようですが、別の面から見れば「冷静」だということです。どんな場面においても、冷静な人がいてくれると助かります。「悲しめない私」を責めるよりは、その冷静さを生かす方向で行動していくほうがラクではないでしょうか。

それに、「悲しめない私」を責めている時点で、あなたはやさしい人だと思います。人としてどうかを判断することは僕にはできませんが、僕があなたの悩みに回答したい、つまり話を聞きたいと思ったことは事実です。

真面目に答えすぎて恥ずかしくなってきたので、いままでの回答は全裸で打ち込んでいたと思ってください。この寒さですので、そろそろ服を着ます。

前にも書きましたが、僕は「泣いてるやつは良いやつ」という考え方が嫌いです。もちろん、泣いている本人には何の罪もないのですが、泣くかどうかで人間性の存否を判断する風潮がたまらなくイヤなのです。泣いてるから何だってんですか。涙腺が緩いだけじゃないですか。涙腺の動きと悲しさは相関するんですか。その人の内なる心を見ることを放棄して、外面的な現象にとらわれてるだけじゃないですか。

ごめんなさい。ついつい熱くなってしまいましたので、すこし脱ぎます。「お前泣いてないじゃん」とか言うひとは、ヒートテックで汗をかいて風邪でもひけばいいのです。もし、こんなことを言われた経験があなたにもあるなら、一緒に呪いをかけましょう。

「悲しいのに泣けない」という悩みは、誰かが風邪をひくということで一段落したはずです。次は、「そもそも悲しくない」場合です。

頂いた文章から察するに、あなたは仏教で言う「愛別離苦」(検索してみてください)を克服しているように思われます。あなたが責めるその状態は、仏教の観点で言えば到達すべき境地なのです。と、瀬戸内寂聴先生なら答えるでしょう。

もしくは、冷静なあなたは「悲しんでいる場合ではない」と無意識で思ったのではないでしょうか。悲しみにとらわれるのではなく、自分にできることを探そうと。絶望していない、つまり望みを絶たれていないからこそ、残っている望みを冷静に見つめていたのではないでしょうか。

薄い薄い、ドリンクバーのカルピスウォーターみたいに薄い僕の人生経験からは、以上の回答を絞り出すのが精一杯でした。すこしでもヒントになればうれしいですが、もしあれなら、飲みかけのままカウンターに返してもらってかまいません。

あなたがサイズも保温機能もぴったりのヒートテックを着て、毎日を暖かく過ごせることを祈っています。

次回更新は12月28日金曜日、正午です。お悩みはこちらまでお寄せください。
12月31日〜1月4日は休業いたします。

励みになります。