鍋の汁を飲む話

二十四節気のひとつ「薄手のカーディガン」が幕を開けた。寒がりにとってはもうとっくに幕は閉じ、「厚手のカーディガン」もしくは「ちゃんとしたジャケットやフリース」がはじまっていることだろう。一方、元気な子どもにとっては二十四も節気がなく、一年の半分は「半袖(はんしゅう、と音読みすると季節っぽい)」となる。つまり何が言いたいかと言うと、すっかり寒くなりましたねということだ。

「寒いじゃねえか、おい!」と天に嘆いても何も変わらない。抗議の座り込みをしても寒いだけであるし、そんな寒い中で座っていると鍋が食べたくなる。鍋を食べながらの座り込みはもう、単なる鍋会である。ださいフォントで「寒波は日本に来るな!」と書かれたプラカードは、「キャベツはキムチ鍋に合う!」とでも書き換えてほしい。

鍋はいい。あらゆる点でいいし、我々はむしろ具ではなく「良さ」を食べていると言っても過言ではないが、とにかく鍋はいい。とくにその雑多さがいいのだ。肉、魚、野菜、各種の練り物……。どんなものを入れても、なんとなく調和が保たれる。人間社会もこうあればいいのに……と湯気を浴びながら嘆いてしまうが、残念ながらここまでの調和はまだ望めない。そもそも鍋会のなかにすら、社会を乱す輩がいるのだから。

うどんで締めると宣言してあるのだ。いや、それ以前に、今日は「どんどん具を足していくスタイル」だと伝達してあるのだ。それなのになぜ君は、君という男は、自分用のお椀にそんなにも汁を注ぐのだろうか。ただでさえ、鍋の具は汁を吸うのだ。それはしかたない。彼らには計算ができないのだ。身体に穴があれば水分が浸透する、それだけの話だ。しかし人間は違う。他者の「鍋を食べる自由」を侵害しない範囲で、自分の自由を謳歌するのだ。見よ、現在の土鍋の水位を。貯水率は明らかに下がっているではないか。土鍋の色に映えるキムチ汁だ。はっきりと目視できるだろう。それなのになぜ君は、君という男は、お玉で二杯も汁をすくうのだ。このままだと締めのうどんが鍋焼きうどん程の水分量になってしまうことを、君は把握しているのか。

わたしには子どもがいない。だがもし生まれて、喋れるようになれば、これだけは言いたいと思う。「鍋の汁を遠慮なく飲む人間にはなるなよ」と。鍋の汁を遠慮なく飲む人間は、サウナ後にかけ湯をせずに水風呂に飛び込む人間だと思う。もしくは、村が水不足のときに井戸水で体を洗うタイプだとも思う。わが子にはぜひ、「酒足りてる?買ってこようか?」と自ら提案できるほどの人間になってほしいものだ。そしてもうひとり名乗りを上げたメンバーと寒い夜道を歩きながら、「今日は楽しいね」などと語り合って関係を深め、いい感じになって交際をはじめてほしい。わが子にはそれくらいの幸福がふさわしいのだ。

鍋の汁を大切にするということは、他者を大切にするということとまったく同じである。鍋の汁をよく飲んでいた君も、いまや結婚し、立派な大人となった。君はきっとあんなことからは卒業し、いくつもの鍋を経て、他者を思いやれる人間となったことだろう。そうだ。鍋の汁は大切にするのだ。鍋をラーメンで締めたいときは、サッポロ一番的な乾麺か、生焼きそばの麺を使うのだ。お幸せに……!

次回の更新は10月26日土曜日です。

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