豆腐と歯ブラシの話

豆腐と歯ブラシは固いほうが好きだ。お酒はぬるめの燗がいいとは思わないが(緑茶ハイが好きだから)、その二者についての好みは、歌い上げたいほどに徹底している。

まずは豆腐だ。「まずは豆腐」というと寄せ鍋を食べ進める工程のようだが、まだその季節ではない。わたしが固い豆腐を好むのは、豆腐のアイデンティティーは固さにこそあると考えているからだ。

高度に柔らかい豆腐は、豆乳と区別がつかない。口に入れた瞬間にとろけてしまうような、噛まずとも飲めるような液体のような豆腐がたまにある。それはそれでおいしいし、居酒屋でオーダーすればヘルシー志向の同行者に喜ばれるのもわかっているのだが、「だったら俺でいいじゃん」と店内の柱の陰で落ち込んでいる無調整豆乳の姿がわたしの目に入るのである。「これとろとろでおいしい!豆乳みたい!」という感想が出るたびに、彼の感情が暗い方に調整されていくのだ。

それに比べて、固い豆腐はどうだ。小皿の上に屹立するそれからは(冷奴の場合)、「俺が豆腐だい」「他の何者でもないんだい」的な、自我についての圧倒的な自信が感じられる。そんな彼に箸を入れ、その身を切り崩すのが好きだ。箸に感じる反発は、彼が持つ自信が生むものである。

固い歯ブラシの魅力は、これとはすこし違う。磨かなくていいタイプのバスマジックリンのスプレーしたあと結局磨いてしまうタイプの人がいるが、わたしがそれである。柔らかいと、磨いた気がしないのだ。

汚れをとる力や作業効率において、従来の歯ブラシが電動に勝てないのは明らかだろう。それでもひとが「手動」歯ブラシを捨てられないのは、「己の手で磨いている」実感を捨てたくないからだと思う。固い歯ブラシが生む痛みは、その実感を強化してくれる。

そう、固い歯ブラシは痛い。手も痛ければ歯も痛い。丁寧にやらないと歯茎さえ痛くなるが、その痛みこそが実感につながるのだ。錯覚だとはわかっているものの、痛ければ痛いほど、歯がきれいになったように思える。

豆腐や歯ブラシで生の実感が持てるなら、安い買い物である。

次回の更新は3月14日木曜日、正午です。

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