もう無理な話

「忍耐力の限界!」と叫びたい。できればたくさんのカメラ前で、できれば髷を結って、できれば張り裂けんばかりの大声でそう叫びたいのだ。

三月あたりからずっと真綿で首を絞められているかのような苦しみがあり、「まあ、真綿なら大丈夫っしょ」と言っている間に二ヶ月が過ぎた。わかったことがある。真綿でもきつい。窒息するほどではないにせよ、やはり真綿で首を絞めてはいけない。その分布団に詰めてほしいし、その布団でいい夢を見たい。

「日常を取り戻す」といった言葉が至るところで踊っている。在宅勤務が出勤に、とか、通販が実際の買い物に、とか、取り戻せるものはたくさんあるだろう。しかし、最も取り戻し難いもの、最も不可逆なものは絶対に返ってこない。それが何なのか、文字にすることにわたしは耐えられない。弔う方法がわからないから、昼でもアイマスクをつけて寝てしまいたい。

わたしは生きている、というのが客観的な事実である。だがこの数ヶ月で、生きて「しまって」いるという感覚が強くなってきている。それがおかしいことは理性でわかっているが、どうしても、生きていることそのものに罪悪感を覚えてしまう。家にこもり、非接触出前の中華を食べながら「どうぶつの森」で遊んでいるとき、こんなことでいいのかと頭を抱えてしまう。その罪滅ぼしがしたくて、幸運なことに(こんなものは運でしかない。実力などではない)減っていない収入から幾分かを寄付に回したりする。そしてその「上から感」「施し感」を理由に自己嫌悪に陥ったりする。

思えば、人間の生の顔、というものをこの二ヶ月ほどほぼ見ていない。回路によって画素として処理された顔や、マスクによって光の反射を半分にされた顔しか見ていない。とくに笑顔なんて、もうフィクションの範疇とも言える。

「がんばろう」「耐え抜こう」なんて言葉は聞きたくない。そんなものはリアルではない。必要なのは「つらいよね」である。同じようにつらいひとがいるということ、そこにしか希望はない。マスクの下の笑顔を想像するように、人の思いを想像して生きていくしかない。

忍耐力の限界!

次回更新は5月23日(土曜日)です。

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