溶けていく「ごちそうさま」の話

飲食店で店員を呼ぶとき、自分の声が店員に届きにくいということは以前に書いた。スコーンと通るような声質ではないので、張り上げても気付かれないことが多いのだ。そんな、届かない「すいませ〜ん」より切ないものがあったことを、昨日思い出した。届かない「ごちそうさま〜」である。

飲食店でひとり食事を終え、カバンを持ったり帽子をかぶったり、そうした自然な一連の動作のひとつとして、わたしは「ごちそうさま〜」を言いたいのだ。なのに、できない。「ごちそうさま〜」が届くのか心配になって無駄な力が入り、かえって精度の低い「ごちそうさま〜」が出て、店員に届かずに店内に溶けていくことになるのだ。そうしてまた、わたしの「ごちそうさま〜」失敗の歴史が更新される。わたしが店のドアを開けたときにようやく店員が気づき、滑り込むような「ありがとざあした!」が発せられる。それが響き終わるのにあわせて、わたしはゆっくりとドアを閉じるのだ。

切ない。切なくてたまらないが、どうせなら切なさの理由(わけ、と読んでほしい)を追及してみよう。

これが届かない「すいませ〜ん」よりも切ないのは、「ごちそうさま〜」はとくに言う必要がないからだ。純粋なマナーや礼儀から来るものであり、言わなくても客も店も損するわけではない。それに、前者が「食べたいものを頼む」という客の利己的な行動なのに対して、後者は「食事やサービスの礼を言う」という利他的な行動だ。

つまり、「よかれ」100%なのだ。「よかれ」は伝わって初めて「よかれ」なのである。伝わらない「よかれ」はどこへ行ってしまうのだろうか。

たとえ伝わらなかったとしても、わたしが「ごちそうさま〜」と言った事実は消えようがない。「よかれ」100%で(このフレーズが気に入ってきた)、感謝の念を込めてそれを口にしたという事実は、誰にも否定できないのである。

合格発表直前の受験生が、手を組んで祈る場面をよく見る。もちろん、祈ったところで結果は変わらないのだ。変わらないが、その「無力」な祈りは「無駄」ではない。結果は変わらなくても、それ以外の何かを変えていくだろう。

わたしの「ごちそうさま〜」は大抵届かない。しかしそれは、店員の耳に届くという形以外で、この世界を静かに変えていくはずだ。そんなことを考えながらわたしは、何のてらいもなく大声で「ごちそうさん!」と言うおっさんの客を憧れの目で見つめるのである。

次回の更新は3月21日木曜日、午前10時です。

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