麦茶の罰金の話

麦茶はもっと褒められるべきだと思う。

まず、あんなに安い飲み物はない。20パック200円の鶴瓶の麦茶はコンビニでも買えるし、安売りが特徴のスーパーなら50パック300円くらいで鶴瓶の麦茶が買える。鶴瓶に限らないなら、もっと低価格なものもあるだろう。水道水の次くらいに安い飲み物、それが麦茶なのだ。

麦茶はしかも、手軽である。容器に水を1リットルほど入れ、ぽーんとパック入れておくだけで、一時間ほどすれば立派な「ソフトドリンク」が出来上がっている。これ以上簡単な調理は、理屈上ありえないほどだ。賢いチンパンジーならたぶん作れるし、「いまから仕込めば夕飯どきに出来上がるよな」くらいの計算もできると思う。「そもそも容器が2つあれば、片一方が一定量に減じた時点でもう片方を作りはじめられるよな」と気づいて、ジェスチャーを用いて研究員に要求するかもしれない。しかし家事に疎く白衣もシワシワの研究員は、チンパンジーの言わんとすることが理解できないのだ。この研究員は、洗濯ネットを使わずに白衣を洗うし、風呂に入ったあとにトイレ掃除をするのだ。

最後に、麦茶はカフェインを含まない。子どもからお年寄り、果ては妊婦に至るまで、まったくボーダレスに麦茶を楽しむことができる。いくら飲んでも目が冴えないので、わたしのような不眠がちの人間にとってもありがたい存在だ。なにか参加者のバラエティーに富む会合があるとき(たとえば犬神家の法事など)、麦茶を出しておけば間違いがない。

このように、いくら褒め称えても足りないもの、それが麦茶である。しかし、あまりにも親しまれているせいで、逆にありがたみが薄れているとも言える。「この部分のビニールが柔らかいおかげで、はさみを使わなくてもしょうゆ袋が切れるんだなあ」とありがたがれる人は稀だ。「どこが『こちら側のどこからでも切れます』だよ!」と怒っている人のことはよく見かける。それと同じように、麦茶をありがたがることは少なく、むしろ麦茶の不在に憤ることが多いのだ。人間とは愚かな動物である。

と、ここまで手放しで麦茶を褒めてきたわたしだが(ついでにその手でパックを入れてきたわたしだが)、外出先でペットボトルの麦茶を買うことはない。それどころか、人生において一度も経験がない気がする。それはなぜか。

外食でメニューを選ぶときに、「できるだけ家で作れないもの」「家で作ったら後片付けがめんどくさいもの」を選ぶようなわたしである。外出先で飲み物を選ぶときも、当然その基準に則っている。しかし、それでも欲求には勝てず緑茶は買ってしまう。緑茶は作るのに手間がかかる、というのもある。だが、それ以上に大きな理由がある。ペットボトルの麦茶に支払う代金が、自分の怠惰への罰金のように思えるのだ。

何度も書くが、麦茶を作るのは簡単である。そしていまの時代、携帯性にもデザイン性にも優れた容器はいくらでも存在する。本気の魔法瓶を使えば冷たいまま持ち歩くことも可能だ。だが、わたしはそうしない。めんどくさいからだ。容器を持ち運ぶのも洗うのも異常にめんどくさいからだ。家で飲む分には容器の洗浄も適当でいいが(どうせずっと冷蔵庫にあるから)、持ち歩くとなるといろいろ心配だし、そうやって心配するのもめんどくさい。というかお茶の入った容器は重い。ああもういやだ。もうやめた。俺は家でしか麦茶を飲まない、そう誓ってしまうのである。

自作の麦茶を持ち運べば、500mlあたり5円もしないはずだ。容器代を考えてもペットボトルで買うときより桁違いに安いだろう。それに、麦茶の味に大差はない。だからわたしにはその価格が、罰金のように思えてしまうのだ。

同じような感覚を、ビニール傘に対しても覚える。あれも「折りたたみ傘を持ち歩かない怠惰」への罰金のように思えてしまう。罰を受けたくないわたしは、急な雨のなかを濡れて帰り、家で麦茶を飲む。冷え切った体に、麦茶には含まれていないはずのカテキンが染み渡り、弱った体をウイルスから守ってくれるのである。

次回の更新は9月7日土曜日です。



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