カラスが鰤を食った話

「おい、カラスが鰤食ってるぞ!」

その声がわたしの箸を止めた。具だくさんの天丼のうち白身魚の天ぷらを食べ終え、次に何を食べるか迷っている最中だったと思う。平均的な大人より言葉には敏感なわたしにも、その台詞の意味は掴みかねた。ここは平日昼の居酒屋で、わたしはカウンターで天丼を食べていたのだ。

どうやら台詞を発したのは、カウンターの向こう側で仕込みに励む、ドン・キホーテで高級腕時計を買いそうないかつい兄ちゃんらしい。というか、カウンターにいる三人全員がそういうタイプだ。求人情報の「委細面談にて」の「委細」に、ドンキで何を買うかが含まれているのだろうか。ならば「でかいチョコパイ」と答えるようなわたしは、この店では働けないのだ。

「やばい、すぐ蓋締めてきて!」

兄ちゃんたちの一人が、松屋で季節ものの定食を頼む勇気がなくいつも牛めしを食べていそうな、フロア担当の下っ端に声をかけた。

この瞬間、いまの状況が「読解」できた。この二言目がなければわたしは、鰤の謎に永遠にとらわれていただろう。これでようやく、「このときの状況を表したものはどれか」という問いに、「店の前に置かれていた発泡スチロール入りの鰤を、道端のカラスがつついていた」と答えられるのだ。

しかし当然だが、解かれてしまえば謎ではない。わかってしまえば魅力はない。リーマン予想も告白の成否も、わからないから興味を引くのだ。

わたしは謎を楽しみたい。幽霊は「いない」のではなく、「いない確率が99.9%」なのだ。その残りの0.1%を慈しむタイプのわたしは、謎を謎に戻すことにした。そして謎の一言目から、別の二言目を想像するのだ。「教養とは、一人で時間をつぶせる能力のことである」と、わたしの敬愛する中島らもは言った。わたしはわたしの教養をフル稼働させ、時間(とnoteの白紙)をつぶすことにする。

ひとつめ。

「おい、カラスが鰤食ってるぞ!」
「だったら醤油もやれよ」

どことなくアメリカン・ジョーク風になった。州知事時代に卵をぶつけられたシュワルツネッガーが、「だったらベーコンもくれよ」とウィットに富んだ発言をしたことを思い出す。では有権者に卵をぶつけられたとき、「だったら醤油と飯もくれよ」と言える政治家が日本にいるだろうか。山本太郎あたりは言いそうである。

ふたつめ。

「おい、カラスが鰤食ってるぞ!」
「昨日と逆だな」

逆、とはそういうことだろうか。そんな鰤がいるのだろうか。そして昨日の兄ちゃんたちは、それを平然と見ており、ストレスフルな接客業の、いっときの癒やしとしていたのだろうか。

みっつめ。

「おい、カラスが鰤食ってるぞ!」
「やっぱあの人も人間なんだな」

この店では、ある人間のことを「カラス」と呼んでいるのだろう。その「カラス」は普段、人間らしいさまを見せないのだろう。いや、「見せなくなった」のかもしれない。見せなくなったからこそ、店内ではなく店外にいるのかもしれない。こちらから見えないだけで、店外には檻があるのかもしれない。「カラス」は昔、カウンターの内側にいたのかもしれない。

時間(とnoteの白紙)を十分につぶせたので、もうやめにする。

この記事の一部は、当然ながらフィクションである。しかし、どこからどこまでがフィクションなのか、それは言いたくないし、そもそも知る必要がないのだ。

次回の更新は2月22日(土曜日)です。


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