今年最後の話

幼い頃から「年末」が好きだった。いちばん古い記憶は保育園のときだ。

まだサンタクロースの存在を信じていたころ、信じたいがゆえに物理法則を無視していたあのころ、保育園にもサンタクロースが来た。その中身が毎日会う○○先生であることは十分にわかっていたが、同時にその人はサンタクロース本人でもあった。その両立に矛盾はなかった。そんなもの楽しさの前では無力だったし、その楽しさのベースにあるのは、年末それ自体の楽しさだった。

どうしてあんなに年末が好きだったのだろうか。理由を考えても、はっきりしたものが見つからない。冬休みはあるが夏休みよりは短い。クリスマスから正月まではイベントがない。そして元気な子どもにとっても、地元三重の冬は寒い。それなのにあんなに浮かれていたのは、年末の「末」の部分、つまり、終わりのイメージに夢中だったからとしか思えないのだ。

大晦日の深夜に、一年が終わる。つまり、一年間もつづいたものが、23時59分59秒からの一瞬で終わるのだ。わたしは、そのあっけなさに詩情を感じる。わたしが「ゆく年くる年」を嫌うのは、あの番組には「一瞬」がないからだ。どうせ「年」なんて虚構なのだから、虚構らしくあっけなく終わってほしいのだ。もしかして「年」という概念は、終わりを感じるためにあるのかとも思う。

年末には緊張感がある。年なんて終わるに決まっているが、ちゃんと終わるのかという不安が常に胸にある。なんとなくだが、「年末」が人間なら、その人は痩せているイメージがある。痩せてはいるが食べることが好きで、ベジタブルファーストを徹底して好きなものを食べている。様々な色のアイテムを身にまといながらも、持ち前のスタイルもあってなんとなく統一感が保たれている。iPhoneも割れていない。選挙にも行く。年賀状も早めに出す。そういう「シュッとしてる」感が、年末にはある。

それに比べて、「年始」のだらしなさは何だろう。基本的に部屋着を脱がないし、クロックスで隣の県くらいまで行くし、すたみな太郎でカレーライスから始めてその後何も食べられないし、iPhoneが割れていてLINE payが読み取れない。12月中旬に年賀状を出していたあの姿は、おせちの重を開けた途端に消えてしまうのだ。

わたしは年始も嫌いだし、「今年最初の○○」も嫌いだ。「今年二番目で令和初」など、意味すらわかりたくない。どうあがこうと、「最初」にはしゃぐ時点で子どもなのだ。フジファブリック「若者のすべて」で歌われたのが「今年最初の花火」だったら、ここまでの名曲にはなり得なかったはずだ。

大人ならやはり、「最後」を愛でたい。大晦日に一年を振り返り、「あれが今年最後だったのか」「もしかして人生最後だったのかな」などと、苦み走った顔でつぶやきたいのだ。

生きていれば「最初」は減る。段々と同じことの繰り返しになる。ならばわたしはいまのうちから、「最後」の苦味に慣れておきたい。そしていずれ、うまいと思えるまで舌が慣れたとき、わたしはようやく大人になれる、そんな気がしている。

次回の更新は1月11日(土)です。正月休みをとります。皆さまお元気で。

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