ミュージカルスターみたいな動きの話

しばらく雨が降っていない気がする。観測的な事実はともかく、体感的にはしばらく降っていない。

日頃から曇天と雨天と気圧低下を憎み、「いっそカリフォルニアに引っ越したい」と叶わぬ夢を抱いているわたしですら、この晴天つづきにはちょっと疲れてきた。仕事があるからこそ休みがありがたく思えるように、たまに天気が崩れるからこそ、降り注ぐ陽光に心が躍るのだ。

基本的に、晴天には賛成である。洗濯物がすぐ乾くし、日中は電灯を点けなくても過ごせるし、外出しても靴や服が濡れることもないが、ひとつだけ残念なことがある。雨の日の数少ない楽しみである、「あの所作の観察」ができないことだ。

建物から出るときにはもう雨脚は見えず、目視するだけでは、傘を差すべきかどうかがわからない。もしくは、傘を差しながら歩いていると次第に雨脚が弱まり、これ以上傘を差しつづけるべきかどうか、判断の必要がでてくる。そんなとき人は、建物の軒下から、傘の下から、片方の手のひらをそっと外に差し出す。わたしはこの所作を目にするたびに、「ミュージカルスターみたいな動きだな」と心の内でつぶやく。

人が日常生活のなかで、ミュージカルのような、または舞台役者やダンサーのような所作をすることは稀だ。誰かに見せることが目的だったり、感情が溢れて冷静さを保てない場合以外は、日常生活の所作に求められるのは機能性だからである。わたしたちは酒をグラスに注ぐとき、シャンパンの注文を受けたホストのように天高くから注いだりはしない。

例の所作の稀有な点は、機能的でありながら、結果的に詩的であることだ。人は別に、詩情を生み出すために手のひらを差し出すわけではない。単にそれが、体感雨量を測るという目的に敵い、かつ負担が少ないからだ。顔面を差し出してもその目的には敵うが、拭くのが面倒な上に服も濡れるし、何より周囲に心配されてしまう。

他にも、そのような所作はある。

わたしの自宅の風呂は全自動ではないため、一旦水をためて、そのあとで「沸きあげ」のスイッチを押すことになっている。そのスイッチは浴槽の上にあるのだが、浴室の入口からも手を伸ばせばギリギリ届く。床が濡れているかもしれない浴室に入るのが面倒なわたしは、入口の枠に左手をかけ、両足を揃えて浴室の外に立ちながら、ポールダンスのように体を大きく振って、右手でスイッチを押すのだ。これはもはや、『雨に唄えば』のワンシーンである。

所作が詩的であるということは、踊っているのとほぼ同じである。あの所作を街で見かけると、つまらない日常生活に劇世界が侵入してきたようで、わたしの心も踊ってしまうのだ。

次回の更新は1月17日木曜日、正午です。
「心が踊る」は誤用で、正式には「躍る」です。

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