鯉の話

家の近所に、区立の庭園がある。公園ではなく庭園だ。花見もジョギングもできないし、遊具も砂場もない公共の「庭」である。ただ樹木が茂り、ただ池があり、ただ滝がある。そこを(わたし以外は可処分所得の高い)区民がただ歩き、静かに憩う。わたしは木々のせせらぎに意識を集中し、預金残高と住民税のことを必死で忘れながら、「こいつら優雅に憩いやがって」とは思わずにひとり散歩をする。

庭園の中心に大きな池があり、そこに鯉がいる。大小合わせて数十匹はいると思われる鯉が、陽光のきらめきのなか優雅に泳いでいる。飼育にかかる経費はもちろん、わたしが払うなけなしの住民税が原資である。「はっ、なんで俺はまた金のことを。憩え憩え自分」と自分を戒めていると、公園の隅にある、パンフレットが差し込まれた什器が目に入った。

そのパンフレットは、この庭園で催されるイベントを告知するためのものだった。多少派手な、でも庭園の景観を崩さない程度の色合いでイベント名や日時、参加料金が書かれていた。

「負けた」と、わたしは思った。

ここにいる鯉たちはただ泳ぎ、苔を食べ、フンをするだけで「暮らし」が成立しているのに、わたしたちには「イベント」なんてものが必要なのだ。ただ生きるだけでは飽き足らず、時にはお金を払ってまで「イベント」なんてものに足を運び、なんとか「暮らし」を成立させるのだ。その「イベント」は人によっては映画であり、本であり、スポーツであり、旅行であろう。仕事や勉強もそうかもしれない。

憩いに来たつもりが、人類の敗北を見せつけられてしまった。

納税意欲をすっかり失ったそのとき、庭園に響いていた「チョキン、チョキン」という音が途絶え、高い木から庭師が下りてきた。若い女性だった。改めて庭園を見回すと、数では鯉に劣るが、わたし以外にも人がいた。老紳士と三歳くらいの男の子、結婚式用の写真を撮影するカップルとその撮影クルー、庭園の受付に座る落ち着いた女性、そしてその庭師。見事にバラバラだ。

鯉にだって個性はあるだろう。肌の色は違うし、大きさも違う。苔のむし具合の好みだって違うはずだ(たぶん)。だが個性という点では、わたしたち人間には逆立ちしても勝てないだろう(まず逆立ちができない)。人間の個性は、「苔のむし具合の好み」程度の違いではない。

ほのかな満足感を得たわたしは、庭園を後にした。可処分所得の高い区民が味わっているのとは違う満足感だっただろうが、納税意欲が少し復活した。

次回の更新は10月26日金曜日、正午です。

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