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ボンゴレに粉チーズをかける話

今朝見た夢の話をしたい。話している当人にとっては面白くても聞いてる側にとってはあまり面白くない話のカテゴリのトップを独走する(二位はペットの話)、夢の話をしたい。

わたしはなぜか、明石家さんまの自宅にいた。さんまの自宅は意外に簡素だった。居間と思われるスペースには畳が敷かれ、布団のないこたつが置かれ、無印の衣装ケースが壁の二面ほどを覆っていた。さんまはおもむろにケースの外にあるポロシャツを手に取り、「何着たらええかわかれへんねん……」とわたしにつぶやいた。どうやらわたしは、さんまに服の相談をされているらしいのだ。

見れば衣装ケースのそばには、入らなかったのか、またはあえて入れていないのか、さんまが「BIG3 世紀のゴルフマッチ」で着ていたらしきポロシャツが大量に積まれていた。色は紺と緑がほとんどで、わたしには違いがわからなかった。「なあ、どうしたらええんやろ……?」と大物芸能人らしからぬ寂しい目ですがってくるさんまに、わたしは「白のワイシャツがいいですよ」と言った。「白のワイシャツなら、『選ぶ』という悩みから解放されますよ」と。それに対してさんまは、「それや!」か、「出た!」か、「大原……麗子です……」のどれかを言った。わたしのさんま観は、この20年間更新されていないのだ。

さて話題は、さんまからサルトルに移る。サルトルはかつて、「人間は自由という刑に処されてますんや」と言った。さんまらしい関西弁は意訳としても、たしかにそう言った。夢の中のさんまもまた、自由という刑に苦しんでいたのだ。

では人間は自由が嫌いなのかというと、矛盾が生じる。わたしはこの「禍」の間、完全防備のもと何度も何度も大型書店に行ったが、常に人で賑わっていた。つまりそこに集う人々は、命を軽く賭してまで「選択」や「自由」を求めていたのだ。もちろんわたしもそのひとりである。すっかり慣れた不織布の匂いを感じながら、フロアを何度も往復して、「これだ」と思える本に出会うため歩き回っていた。それはどう考えても幸福な時間である。

つまり、「選ぶのがつらい」と「選ぶのが楽しい」は、互いに矛盾しながらも共存している。どういう場合にどっちが勝つのか、未熟者のわたしにはまだわからない。ただこの矛盾を認知したとき、ある疑問が解けたのだ。それは、「なぜあのおばさんはカプリチョーザでボンゴレを頼みながら、味見もせずに粉チーズをドバドバかけたのか」である。

いきなり「あのおばさん」と言われても困るとは思うが、先日そんな女性を目撃したのだ。わたしは常々、味見もせずしょうゆラーメンに塩コショウをかける勢力に対し、憤りを感じてきた。ただ、それはあくまで量の問題である。適量の塩コショウはしょうゆラーメンの甘みを際立たせる。が、その甘みは店によって違うので、まずは味見をすべきというのがわたしの政治思想である。

ただ、ボンゴレに粉チーズはその限りではない。それは「調味」というよりむしろ「否定」だ。チーズの風味がボンゴレのあっさり塩味を完全に殺している。台無しだ。温度で言えば、ざるそばにお湯をかけるようなものだ。第一、チーズが好きならカルボナーラを頼めばいいのだ。ランチセットの選択肢に含まれているだろう!なんでわざわざボンゴレを頼んで、その上で粉チーズをかけるのだ!しかも、味見もなしに!

そこまでヒートアップしたわたしは、セットドリンクのアイスティーを飲んで冷静さを取り戻した。彼女はただ、人間の矛盾を体現しているだけなのだ。ランチセットのパスタを選んで自由を楽しみつつ、それに粉チーズをかけることで自由を忌避しているのだ。

それでもわたしは、彼女の行動に異議を唱えたい。なぜならそこには「対話」がないからだ。味見もなしにボンゴレに粉チーズをかけるということは、映画館に入り、上映直前に「最後に愛は勝つ!」と叫んでから本編を観るようなものである。ラブストーリーならまだしも、ホラー映画でもそうするのだ。映画を観ることで、つまり作り手と対話をすることで自分の意見を形成する。それが「自分の頭で考える」ことだとわたしは思う。

甘言を弄する政治家に騙されず、口八丁手八丁のオンラインサロン経営者に振り回されず、Twitterの世論に流されず、自分の頭で考えること。それこそが人間の美徳だとわたしは思う。そしてわたしはいま愕然としている。わたしもまた、正論という粉チーズを文章にぶちまけてしまっている。一口食べると、秋刀魚の味はもうしない。

次回の更新は6月20日(土曜日)です。


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