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オンライン帰省には意味がない話

わたしの浅薄な英語知識で言えることといえば、'Go to hell'なら文法的に正しい、ということくらいだ。観光は補助金までつけて奨励しているが、帰省については玉虫色の答弁を各所で繰り返している。そこで出現したムーブメントがこの「オンライン帰省」だ。わたしはこれに、断固として反対する。

オンライン帰省は、具体的に言えばzoom帰省である。そしてこの時点で破綻が生じている。zoomが交換するものは「情報」であって、帰省の本質は情報以外にあるからだ。

延々と繰り返す日常に浸っていると、そもそもこうだったと勘違いしてしまう。東京のワンルームで目覚め、電車に揺られ(ラップトップの電源を入れ)、職場で(家で)働くことが必然の行程のように思えてしまう。だがそこから遠く離れ、三食を用意してもらい、無為に時間を過ごしていると、徐々に「東京ではない自分」が立ち上がってくる。

そしてこの自分から見た東京は、というか東京の生活は、無数にある選択肢の一つに過ぎないと実感できる。そうだ、おれは自らその生活を選んだのだ、電車に揺られるのではなく乗っているのだ、そしてあくまで選択ならば、それをやめることもできるのだ。

わたしは独身を謳歌する者であるが、家族のいるひとはまた感じ方が違うのだろう。なぜなら、その「選択」には住まいや仕事だけではなく、伴侶、さらには新たな生命も含まれるのだ。故郷の自分が立ち上がり、その目で妻や子を見たとき、いったいなにが渦を巻くのだろうか。わたしはそれを考えると怖くて結婚などできないし、つまり帰省はたいへん危険な営みでもある。

帰省は現状を相対化してしまう。もちろん、その相対化こそが意義である。だから自宅から出ず、自宅のwi-fiを経由して故郷にアクセスしても、それは帰省ではないのだ。思い出してほしい。「自粛」がきつかった四月や五月、行きつけの店の味をテイクアウトして食べた感想はたぶん、「店で食べたい」だっただろう。

わたしはこの夏、帰省しない。情報ならラインで伝えられるから、オンライン帰省すらしない。ただ、墓参りだけはしておきたかったから、雑司が谷霊園の「森さん」の前で軽く祈っておいた。きっと親類ではないのだが、向こうでうまいこと処理してくれたらと思う。

次回の更新は8月22日(土曜日)です。


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