『ワイルド・ワイルド・カントリー』の話

昨日、Netflixのオリジナルドキュメンタリーシリーズ『ワイルド・ワイルド・カントリー』の最終話を観た。その興奮が覚めやらぬまま、今日はこの作品の魅力を時間と文才の許す限り皆さんにお伝えしたい。なお、結末には触れないものの、途中までの展開には触れることをご承知いただきたい。

まずは、この作品のあらすじを紹介しよう。Netflixの公式サイトには、このように記載されている。

カルト集団を率いるインド人グルが、オレゴンの荒野に理想郷を建設。地元住民との摩擦から衝撃のスキャンダルまで、堕ちた宗教家の足跡をたどるドキュメンタリー。 予告編を観て詳細を確認。

そう、詳しい内容は予告編でご確認いただきたい。書き手として大変に卑怯なやり方であるが、あらすじを書く労力を感想の方に回してみたい。

90年代に物心がついていた日本在住の方なら、このあらすじを読んだ時点で「ある教団」のことが頭に浮かぶはずだ。宗教に関しては素人であるわたしから見ても、その教団と、この「ラジニーシプーラム」の共通点は多い。

「教祖」がたっぷりと髭を蓄えていたこと、仏教から強い影響を受けていたこと、大規模な施設を建設して地元住民と対立していたこと、選挙に打って出たこと、幹部が連日メディアに登場していたこと、身内を殺そうとしたこと、「我々は迫害されている」という被害者意識が生まれて銃で武装していたこと…。ちなみにラジニーシプーラムは、未遂こそあれ殺人を犯していない。

その中で特に印象に残ったのは、彼らの被害者意識である。

ある日突然、何のゆかりもないオレゴン州のある農村地帯に訪れた彼らは、大量の信者を呼び、大量の建物を建て、地域をジャックする。米国の法に則り、彼らはこの地域を「市」として申請し、最終的に「ラジニーシ市」を成立させる。その力の源はもちろん、大量に押し寄せた信者である。彼らは「民主的に」地域を乗っ取ったのである。

当然、地元住民はこれに反発する。静かな生活を営んでいたところに、突然わけのわからない奴らが現れ、そのせいで住民が流出し、コミュニティーが破壊され、しかも地域の名前まで変えられたのだ。住民にとって教団は、自分たちの「自由」を奪う悪者なのだ。

これに対し教団は、被害者意識を発動させる。自分たちは宗教的少数派で、迫害されている。法律を守って宗教活動をしているだけだ。理解を拒んでいるのは、むしろ住民側のほうだ。自分たちには信教の「自由」がある。教団側の視点に立てば、住民こそが「自由」を奪う悪者になる。

彼らは異口同音に、「ここは自由の国である」と語る。そう、ここは日本ではなくアメリカなのだ。数百年前、船に乗って突然やってきた「開拓者」たちが、先住民を殺して作った自由の国なのだ。

ここでわたしは、アメリカという国の成立過程を非難したいわけではない。そしてもちろん、日本にも複雑な歴史はある。

ラジニーシプーラムと開拓者は、本質的に違うものなのだろうか。前者を悪、後者を善と考える基準はどこにあるのだろうか。わたしはそれを考えると、途方に暮れてしまうのだ。

次回の更新は1月16日水曜日、正午です。

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