科博で癒やされる話

人生は辛苦に満ちている、というありふれたことを言いたい。寒いから余計に言いたい。ああおれの人生は間違いじゃなかったのだと心底思えるほどの幸福がたまに訪れるにせよ、生きていることの大半は苦だ。もしビートたけしが競泳選手だったら、「人生が競泳なら幸福は息継ぎでよ、ずっと息継ぎしてるわけにはいかねえし、そもそも息継ぎのために泳いでるんじゃないんだよな」と語るだろう。ビートたけしほどの傑人でもそうなのだから、我々一般人は言うまでもない。外は寒いし、働きたくないし、お米が空から降ってこないのである。

精神の限界を覚えたとき、以前のわたしは酒に逃げることもあった。しかし今年に入って二度も飲酒で気を失い、医者に「アルコールはゼロが理想。それより太り過ぎ」と言われたいまのわたしには、その選択肢は現実的ではない。ビールとからあげではなく、ウィルキンソンとツナサラダでなんとか自分をだましているのだ。それに、理想は常に達成されないから、いや、達成されないという真理を守るために、わたしはたまに酒を飲むことにしている。

いまのわたしの逃避先は、東京・上野にある国立科学博物館である。ただし、アルコールに酔うかわりに知性に酔うみたいな、そんな高尚なことではない。わたしはここに、人間を脱ぎに来るのだ。

わたしのお目当ては「地球館」一階にある、常設展の一部だ。遠足に来た中学生以下の子どもたちが「きもちわる〜い」と一様に声を漏らすその展示こそわたしの癒やし、本物の牛の消化管である。わたしはこの、食道から肛門まで数十メートルに及ぶ消化管を眺めるのが、たまらなく好きなのだ。

消化管には「意思」がない。人を救いたいだの、誰かの裸が見たいだの、高尚なものも低俗なものも一切の意思が存在せず、ただ「機能」だけがある。その潔さにわたしは、憧れに近いものを覚える。そして、ああ、そういえば自分も単なる一本の管なのだと、悟りに近い心境に到達する。周りを見ると、幼い管が制服を着てメモをとり、若い管がつがいで歩き、老いた管がボランティアで解説をしている。

一本の管としての自覚に目覚めたわたしは、地球館を出る。そしてミュージアムショップに入り、管としてはまったく必要のないオリジナルの文房具をSuicaで買って、一人悦に入るのだ。そのときわたしは人間である。気づけば喉がすこし乾いている。どこかでコーヒーでも買って飲もうと思う。そのときまた、わたしは管を自覚する。

次回の更新は2月8日(土曜日)です。

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