共感性なんたらの話

たまに駅前で政治家が、「おはようございます、いってらっしゃいませ」などと有権者たちに挨拶している様を見かける。きっと「街頭」だの「立ち」だの専門用語があるのだろうあの活動を見かけるたびに、わたしの心は不満で埋まる。

なぜ、一言でもいいから褒めてくれないのだ。何らかの事情で仕事に行かざるを得ない我々のために、「うわぁ〜!」とうめきながら毎朝起きている我々のために、「えらいですね」の一言くらい差し込んでくれてもいいのではないか。いや、もっとだ。この厳しい冬の最中だ。「生きてるだけでえらいですね」ぐらいのことは言ってもらいたい。そう言ってくれた政治家の顔を、わたしは忘れないだろう。そして選挙のときにその顔を思い出し、政策を精査した上で、投票するかどうかを決めるのだ。

そんなふうに、普通にしているだけでも辛い季節だ。プロの試合か?と思えるほどスカスカになったジェンガの上に一粒のほこりが落ちて崩落するように、わたしの心もまた、非常に危ういバランスを保ちながら、些細な出来事で粉々になるのだ。

会社の昼休みにカレーを食べていた。仕事の多い曜日に行くことに決めている、駅前のインドカレー屋に行ったのだ。15時という中途半端な時間のため、空いた店内で快適に過ごせるはずだった。が、そのときは違った。二十代から三十代の女性客でごった返していたのだ。

女性客たちの前に置かれているのはライスでもなく、ナンでもなく、名称がわからないが粉からできているのはわかる何かでもなく、銀製のタワーに置かれたお菓子だった。そうだ、思い出した。この数日前から、この店のアフタヌーンティーがツイッター上で話題になっていたのだ。多種多様なインドのお菓子が楽しめて、紅茶ではなくチャイが飲み放題のアフタヌーンティーに、若い女性が大挙して押し寄せていたのだ。

せっかくゆっくりできると思ったのに。わたしは残念に思ったが、もはや口がナンになっていた。諦めて席に座り、チャイ入りのポットを持って忙しそうにしている店員となんとか目を合わせ、いつものセットを注文した。

わたしの右隣には、高校生か大学生に見える女性二人連れが座っていた。わたしよりずっと前からいたはずだったが、繁盛した店内では彼女たちの奥ゆかしい「すいません」は響かず、注文ができなかったのだろう。ぐら。わたしの心が微震する。彼女たちがなんとかして(記憶が確かならば、わたしの注文を取りに来た店員を拾うようにして)注文にこぎつけたとき、わたしは安堵した。大丈夫な揺れだった。わたしはカバンから文庫本を出しながら、彼女たちの注文を聞くとはなしに聞いた。

「ええと、アフタヌーンティーを二つ」
「ご予約は?」
「えっ」
「アフタヌーンティーは予約のみです」
「あぁ……」

木っ端微塵、という言葉はこういうときに使うのだろう。わたしの心はもはや、原型を想像できないほどに壊れた。まさか、この世のすべてに裏切られたような「あぁ……」を、午後三時の四谷のカレー屋で聞くとは思わなかった。どんな「あぁ……」も聞くに堪えないが、女性二人で楽しみにやってきた店で、奥ゆかしい「すいません」を何度も放ちながらやっとの思いで注文したアフタヌーンティーが予約専用だと知ったときの「あぁ……」は、もはやマイルドな断末魔だろう。

「単品の注文はできますよ」という店員の声で、彼女たちはなんとか持ちこたえていた。一度店員を下がらせ、決まったら呼ぶと伝えていた。よかった。これでなんとか、二人のティータイムは楽しいものになるだろう。わたしが再び安堵しながら熱々のナンをちぎっていると、注文した方の女性が曖昧な笑いを声に含みながらこう言った。

「いつもうまくいかないよね」

わたしは泣いた。実際には泣いていないが泣いた。ああ、アフタヌーンティーが頼めなかったくらいで絶望するのが人生なのだ。彼女たちが愛する親や友人やイケメン俳優が店に突然やってきて、彼女たちを抱きしめてほしい!その際、電気毛布等の特別温かい布でくるんであげてほしい!わたしはそう願ったが叶うはずもなく、親でも友人でもイケメン俳優でもないわたしには何もできず、特別温かい布と言えば手元にはナンくらいしかなく、ナンで彼女たちをくるむわけにはいかずにただ淡々と食事を進めた。

その後、彼女たちに楽しいティータイムが訪れたのかどうか、わたしは知らない。わたしが早くに店を去ったのかもしれないし、そうでなくても、あまりの切なさにわたしの耳が遮断されたのかもしれない。

どうか彼女たちにはいま、暖かい場所で、好きな人やものに囲まれて過ごしていてほしいのだ。そして万障繰り合わせの上、きちんと予約をした上で、果たせなかった思いを果たしてほしいのだ。

次回の更新は1月18日(土曜日)です。

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