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言ったほうは忘れている話

「森さんは調味料で言うとバターだね」

数年前、ある飲み会でそう言われた。なにかの流れで「このメンツを調味料に例えるとなにか」というテーマになり、飲み会参加者ひとりひとりについて皆が品評を重ねていた。そしてわたしのターンとなったとき、ひとりの女性が言ったのが冒頭のセリフだ。「森さんがいると場がまろやかになるっていうか、ぜんぜん違う味同士が混じりやすくなるんだよね」とのことだった。他の参加者も納得し、それじゃあ次とばかりに誰かのターンに移った。

彼女はたぶん、それを言ったのを覚えていない。久しく会っていないし、確認する機会もないのだが、だからこそわたしの中に乾かず湿ったままその言葉は居つづける。わたしはそう言われて、うれしかったのだ。うれしいあまりに細部が補正されている可能性が高いが、言葉の重みは変わらない。いくらアプリで盛ろうとも、被写体の本質は変わらないのだ。

言ったほうは忘れているのに、ということが往々にしてある。とくに悪口がそうだ。同級生がわたしの創作に対して言った「所詮○○のパクリだろ」という言葉は、いまでもわたしを傷つける。彼はいまでも友達として接しようとするから、自分で言ったことを忘れているのだろう。そういうものだ、と諦めたくないから、わたしは彼との縁を切っている。

高校のとき倫理を選択していたわたしは、「己の欲せざるところは人に施すことなかれ」という孔子の言葉に強く影響を受けている。平たく言えば、されて嫌なことはするな、ということだ。だからわたしは細心の注意を払い、他人を評価するような物言いは極力避け、するにしてもポジティブな内容になるよう心がけている。ただそれでも、言ったほうは忘れているのだ。

「塾の先生の一言がきっかけでした」

ノイズが欲しくて点けていたテレビから、若者の溌剌とした声が聞こえてくる。わたしは割り箸をコンビニの容器から離すと、その若者の顔を見た。顔も溌剌としている。どこかで見たような気もするが、テレビに出ている以上、彼は有名人なのかもしれない。

「筆箱がいつも整理されているね、と言ってくれたんです。それがうれしくて」

その困ったような笑顔を見て思い出した。十年ほど前、わたしは彼に英語を教えていた。画面のテロップをよく見ると、「警察に革命を起こす 押収品体育館陳列の達人」と書いてある。

「これからも自分の特技を生かして、社会に貢献していきたいですね」

そう語る彼は、「分詞」がわからず苦しんでいたときとは别人のようだった。わたしは冷蔵庫に向かい、デパートで買った海外のビールを取り出して、それを勢いよく開けた。

次回の更新は8月15日(土曜日)です。
塾講師の職について一年が経ちます。


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