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高校のときフジロックに行った話(後)

前編:https://note.com/morishin5555/n/n00505ed96b99

トンネルを抜けるまでもなくそこは、雪国だった。寝不足で朦朧としているわたしの目に、薄暗い銀世界が飛び込んできた。田んぼだらけの地元を出て、コンクリートまみれの名古屋を経由して、木と雪に囲まれた新潟にたどついた。時計を見ると夜中の三時。いま冷静に考えれば、七月の下旬に雪が残っているはずがない。しかし何度思い出してみても、その日の新潟には雪がある。それならそれでいい。本当かどうかはどうでもいい。

「いよいよやな」を何度も言いすぎて、「いよいよ」が芯を食うことはなかった。バスから会場が見えたときも、バスを降りてゲートに向かうときも、ゲートをくぐって入場するときも、「いよいよ」はずっとつづいていた。

グリーンステージで二人してハイネケンを飲んでいると(高2)、最初のバンドが演奏をはじめた。はじまった、と同時に、はじまってしまった、とも思った。

そこからの記憶はさらに混濁する。何日目に起きたのかはわかるが、それらをうまく線で結べない。三日目のハナレグミで鼻血を出したあとに初日の川べりで芋焼酎のロックを飲んだように思えるし(高2)、二日目のケミカルブラザーズのあとに宿に着いて三日間よろしくお願いします、そうです高校生なんですと挨拶した気もする。また、その翌日である二日目にNが好きだったフランツ・フェルディナンドが「テイク・ミー・アウト」を演奏しているときに、わたしが彼を持ち上げたあとで初日にハイネケンを飲んだ気もする。

それから八年ほどして、Nは亡くなった。苗場から帰ってきてからも高校生活はつづいたし、わたしが東京の大学に行って散り散りになったあとも、NとTと三人で幕張のサマーソニックに行ったりもした。卒業して就職してからも、盆の時期に同窓会で会ったりしていた。

それでもわたしは、いまもNが苗場にいる気がしてならない。高2のまま老けていないNがハイネケンを飲みながら、遠慮がちに跳ねているように思えてならない。

都合がいい。葬式にも墓参りにも行かなかった自分が、彼の死を否認する手段として物語を描きたいだけだ。真っ当なやり方は、死を直視して折れるまで悲しむことだ。しかしわたしは、こうでもしないとやってられないのだ。

イープラスからメールが届いた。今年のチケットは来年も有効らしい。だがわたしには来年より、Nといた十六年前のほうが近く感じる。

次回の更新は9月5日(土曜日)です。

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