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鬱で解像度が落ちる話

大体のことは天気か政治のせいにしている。実際そうだからだ。自分の責任で起きることは少ない。というか、そう思わないと朝が来ない。

鬱である。これは天気のせいである。落ち込む事象がないことはないが(文藝賞落選など)、おいしいものを食べても元気が持続しないということは、これはもう天気のせいなのだ。こんなときはどうあがいても、些細なことを思い出してしまう。

ある日、出前をとった。日曜の昼でどの店も混んでいるだろうから、2020年の文明人としてわたしは出前をとった。到着時間に合わせて炊いた白飯を茶碗によそい、さあごちそうだと湿ったレジ袋をほどいていくと、おしぼりの姿が見えない。別にかまわない。手を洗えばいい。濡れた手をキッチンペーパーで拭ったあと、さあごちそうだと容器をレジ袋から出すと、すっかりくたびれた紙おしぼりが現れた。ああわたしは、人の善意に気づけない人間なのだ。その人が死んだあとで真意に気づき、墓前でくずおれるしかない人間なのだ。

わたしはそんな風に、気が回らない人間なのだ。先日、池袋の街を歩いていると、目の前を歩いていた女性のスカートが地下鉄の排気に煽られ、一瞬中身が顕になった。もちろんこれをラッキーだと思うほどの下品さはないからすぐに目を逸らしたが、それでも、その女性がこの日一日を「スカートが煽られた日」として過ごすと考えるとあまりに気の毒で、だから「見えてないですよ」と話しかけるべきだったのか、いや、それは逆に彼女を不快にさせるから、そもそも、スカートが煽られるのを目撃するところにいるわたしが悪いのだ。

だから今朝も自分が悪かったのだ。ピンクの傘で身を覆った小さい女の子が、すこし先を歩く母親に「ママおそい〜」と言った。母親は明らかに不機嫌な様子で「おそいのはミナ(仮名)でしょ、ママははやいの」と子供相手に論理的に反駁し、さらに、「ママははやい」と訂正した女の子に追い打ちをかけるように「早く歩きなさいよ」と言うのを見て、わたしはもう前に進むことすら面倒になった。これだって、わたしのダウナーが母親に伝染したに違いない。わたしがそこを通らなければ、ミナちゃんもきっと母親と楽しくお出かけできたのだ。

平時であれば、ここまで落ち込まずに済む。身の回りのことを一緒くたにせず、自分が原因であるものとそうでないものに分け、前者のみを反省して次に活かすことができる。ただこんな日は視野の解像度が落ち、○と□の区別すらなくなり、あらゆる「負」が渾然一体となった塊が自分に向けて転がってくる。

今日はもうだめだ。そう思いながらキッチンカーで買ったカレーを取り出そうとすると、スプーンが入っていなかった。慌てて店に戻って事情を説明すると、母娘で経営しているらしいその店の娘おしぼりが平身低頭謝罪してくれ、いやいやいいですよと言っていると母おしぼりも出てきて「この子は本当」などと言いながら娘の頭を押さえて下げさせ、謝罪が人格否定に入ったところで上向きの風が吹いて親子ともども舞い上がり、車の屋根に引っかかった。

次回の更新は9月19日(土曜日)です。


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