考え過ぎの話

元気がない。憂鬱だ。なんにもやる気が出ない。人生初の確定申告が滞りなく完了した解放感も、何時に起きても怒られないわが身の自由も、今日はなにもかもがわたしの憂鬱を加速させる。

こういう日、つまり、どう分析しても具体的な鬱因子が見つからない日はたまに来る。大抵は体調か気圧の問題であるから、なにも考えずに普通に暮らすしかない。それはわかっている。わかってはいるが、なかなか実行がむずかしい。

そもそもわたしは、「なにも考えない」ことが不得意だ。どこにいてなにをしていようとも、必ずなにかを考えてしまう。

先日とある動物園に一人で行き、「モルモットふれあいコーナー」でモルモットを膝に乗せてなでていたときもそうだった。

なにせ、「モルモットふれあいコーナー」である。わたし以外の客(カップルか家族連れが99%)はみな、とろけるような笑顔を見せながら、口々に「かわいい〜」と漏らしている。そのとき彼らの頭には、職場の不快な先輩も、赤字続きの家計簿も、打つ手のないこの国の少子高齢化もなく、ただモルモットだけが存在していたのだろう。その一方でわたしは、「人間とモルモット、どちらが幸せに生きているんだろう」「抽象的な発想をしないぶん、逆に彼らのほうが自由なのではないか」などと考えてしまう。せっかく乗りたくもない膝に乗ってやったのに、そんな小難しいことを考えられてモルモットも不本意だっただろう。

「考える人」という銅像がある。1881年にオーギュスト・ロダンが制作した、考えに没頭するあまり服を着るのを忘れた人の像である(後半は嘘)。あの銅像を目にする度に、「寒くないのかな」と同時に、「人間ってつらそうだな」という感想を抱く。「考える」ということは、人間に与えられた罰ゲームなのかもしれない。

この二段落でお分かりの通り、わたしの思考には落ち着きがない。モルモットから考える人に飛ぶ。考える人から神と人類の関係に飛ぶ。いつも疲れて難儀しているが、「精神の多動」だと思って諦めている。

そんな症状を抱えるわたしであるが、なにも考えない手段、つまり没頭できるものはいくつかある。その一つがホットケーキ作りである。

ボウルにミックス・卵・豆乳(牛乳だとお腹が痛くなるため)を入れ、だまが多少残る程度まで混ぜる。おたまでそれをすくい、あらかじめ温めておいたフライパンに向かって、真上から落とす。ホストがシャンパンを注ぐときのように、ある程度高いところから落としたほうが形がきれいになる。表面にぽつぽつと気泡が出始めたら、意を決してひっくり返す。香りや側面の見た目を頼りにタイミングを探り、ここだというときにもう一度ひっくり返す。そうやって最後の熱を加えたあと、ヘラですくって皿に載せる。これをミックスの許す限りつづけ、およそ六枚のホットケーキが出来上がる。

この間、わたしは坐禅中にも似た境地に至るのだ。とくに、気泡が出るのを眺めているときは完璧な「無」である。全体を通して「無」の時間が長く、そしてその強度が高いほど、ホットケーキはおいしく出来上がる。わたしにとってホットケーキ作りは坐禅であり、写経なのだ。

わたしにとってホットケーキは食べ物ではない。冷凍保存のきく写経である。

次回の更新は2月20日水曜日、正午です。

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