「押すやつ」の話 (再)

最近色々なことがあり、ほんのすこーし、心身ともに参っております。なので今回は、以前書いたものの「再配信」を行うことにしました。十ヶ月前に書いたものをそのままアップするのも芸がないので、ほんの申し訳程度に、天ぷらに抹茶塩をつける程度に、若干の加筆修正を施しました。皆さんの暇つぶしになれば幸いです。では。

すべての飲食店に、あの「押すやつ」を導入してほしい。丸みを帯びていたり角ばっていたりする、それ単体で独立していたり占いマシンと合体していたりする、飲食店で店員を呼ぶときに押すやつのことだ。わたしの快適な外食は、それの有無にかかっているといっても過言ではない。

「すいませーん!」が届かないとき、人は大変に傷つく。店員を呼ぶ権利を十分に有していて、それを行使しようという正当な願いが却下されたのだ。店員に届かず、ただ店内にこだまする「すいませーん!」は、「(声の通りが悪くて)すいませーん!」に脳内変換されてしまう。気分が落ちていれば「(生まれて)すいませーん!」になるかもしれない。何かつらいことがあり、憂さを晴らしに来た飲み屋で「生まれてすいませーん!」と叫ばされるのだ。そんなの太宰治でも耐えられまい。

ところが、まるで凄腕のスナイパーのように、どこからでも「すいませーん!」を店員に届かせる者もいる。彼らは、我々「すいません弱者」とは違う。店員の姿を確認し、それほど忙しそうじゃないな、いまならいけるな、と考えを巡らせ、目を合わせながら声をかけるような真似はしないのだ。彼らはただ自席から叫ぶだけで、なんならビールジョッキを片手で持ちながら店員を呼ぶのだ。もしよかったら、どこで習ったのか教えてほしいくらいだ。

我々はもう、傷つきたくはないのだ。だからってスナイパーたちに教えを請うのもめんどくさいのだ。「押すやつ」を、「押すやつ」をすべての店に導入していただきたい……!しかし、こんなに真摯な願いすら叶わないのが我々の憂き世だ。信じられないが、「押すやつ」反対派がいるのである。

反対派の意見として、「冷たい感じがする」というのがあるはずだ。彼らは客と店員との、人と人としての温かい交流を大切しているのだ。気持ちはわかる。十分にわかるが、ほんのすこしだけでいいから、「生まれてすいませーん!」と叫ばされている者のことを想像してほしい。誰かと誰かの温かい交流のせいで、別の誰かの実存が危機に瀕している。「押すやつ」で呼んだ店員と温かい交流をすることは可能だが、「押すやつ」が無いせいで失いかけた実存は、そう簡単には元に戻らないのだ。

人が「押すやつ」を押すとき、「押すやつ」もまた、人を押しているのだ。「生まれてすいませんなんて言うなよ」と、そっと指を押し返してくれるのだ。あの無機質で硬いプラスチックのボタンが、わたしの指から体温を吸って、ほんの少しだけ温かくなっている。

次回の更新は、9月28日(土)です。

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