琵琶湖旅情編(2)「俺にもくれよ」

〜前回までのまとめ〜
就職前の「卒業旅行」として、琵琶湖周辺を旅することになったわたし。翻訳家・村井理子さんのお宅にお邪魔して愛犬ハリー君と遊ぼう、さらには琵琶湖周辺の観光スポットをたっぷりと巡ろう……。旅の行程にわくわくしながら湖西線に乗っていると、最初の目的地「びわ湖バレイ」の最寄り駅が近づいてきた。

志賀駅に到着したのは、5月27日の正午前のことだった。「念の為トイレ」を済ませてバス停に向かうと、ちょうどそのときにバスが来た。ため息が出るくらい見事なタイムスケジュールだ。わたしは自分の計画性に感嘆しながら、いかにも「地元のバス」といった感じのそれに乗車した。

平日にも関わらず、バス内は観光客でいっぱいだった。好天に恵まれ、期待と興奮を抑えられない観光客をパンパンに乗せたバスが、そのトルクの限界に挑戦するように山道を登っていく。「めっちゃええ天気〜」といった歓声と、こちらが心配になるほどのエンジン音が絡み合い、わたしの旅情を盛り上げていく。

乗車して10分ほどで、バスは「ロープウェイ山麓駅」に到着した。ここから打見山の頂上までロープウェイで向かうのだ。近鉄特急・湖西線・路線バスからのロープウェイ。乗り物の「旅らしさ」が一気に加速する。わたしは往復のチケットを係員に見せ、窓際のつり革を握った。

121名の乗車定員を少しだけ下回る数の乗客を乗せたロープウェイが、ぐんぐんと山を登っていく。なかなかの高さとスピードに歓声が上がるなか山麓駅を振り返ると、その先に琵琶湖が見えた。山を登るほどに距離は遠くなっていくのに、その存在感はどんどん増していくように思える。添乗員のおじさんの、もはや「熟成」といっていいほどに流暢なナレーションを心地よく聞いているうちに、あっという間に山頂に到着した。

びわ湖バレイは「琵琶湖を望むネイチャーリゾート」である。お酒を飲みながら、犬を連れながら、ブランコに乗りながら……。あらゆる形で自分を解放させながら、打見山と蓬莱山の頂上から雄大な琵琶湖を眺めることができる。わたしはまず、食で自分を解放することにした。

60分2000円のブッフェ(旅先のテンションで安く感じる)でお腹を満たすと、わたしは散歩気分で、打見山からつづく蓬莱山に向かうことにした。子どもたちがアスレチックで遊んでいるのをぼーっと見ながら歩いていると、村井さんから連絡があった。明日28日朝の予定だった待ち合わせを、今日これからに変更しませんかという連絡だった。明日の天気が心配なこともあり、わたしはすぐに承諾した。

iPhoneをポケットにしまい、目の前のアスレチックを再度眺めると、先ほどまでとは違って見えた。これからあの、元気極まりないハリー君に会うのだ。誰に対しても人懐っこく、かつ一部で「近江牛」と呼ばれるほどの体躯を誇る彼とがっぷり四つに組んで遊ぶのだ。そんなわたしにとって、このアスレチックは修行の場なのである。「太ももの裏の筋肉を伸ばそう!」と丸いフォントで説明されているあの器具は、観光客のリフレッシュ手段ではない。向こうにそびえ立つボルダリングの壁は、恐れを知らぬ子どもたちの遊具ではない。わたしはカンフー映画のBGMを脳内で鳴らしながら、(32歳の身体に無理のない範囲で)各種アスレチックに挑戦した。

ひと通り運動して、なにかのはずみで身体が琵琶湖まで飛んでいきそうなブランコに乗り、リフトに乗って蓬莱山の頂上に行って景色を楽しんだあたりで、わたしは下山をはじめた。山々を飛ぶトンビではないわたしは、リフト・ロープウェイ・バスと交通手段を変えながらゆっくりと麓に向かった。

とある駅で、わたしは村井さんを待っていた。ハリー君を乗せた車で迎えに来てくださり、その足で琵琶湖畔の浜まで連れて行ってくださるのだ(そんな村井さんの最新訳書『サカナ・レッスン』は絶賛発売中)。期待に胸を躍らせながら待っていると、一台の車が左からロータリーに入ってきた。

運転席に村井さんの姿を確認し、わたしは会釈をした。その隣で黒くて大きな「なにか」が激しく動いている。彼である。わたしの目の前で車が停まり、助手席のウィンドウが開いた。人間同士として、大人同士として、昨秋以来の再会であるわたしと村井さんが挨拶を終える前に、二人の間にいた彼がわたしに飛びかかってきた。

声でもなく手でもなく、最初に飛び出してきたのは顔だった。彼は初対面のわたしの顔を勢いよくなめると、「え!マジ!いきなり!」とファーストアタックにひるんでいるわたしを鼻息荒く興味深そうに眺めている。いや、落ち着け自分、まずは乗車だとわたしが後部座席のドアを開けた途端、彼は流れるような身のこなしで後部座席に移り、またもわたしの顔をなめる。彼の全身の勢いをなんとか押し返して乗車し、わたしが手土産の伊勢うどんを村井さんに渡そうとすると、「俺にもくれよ」とばかりに彼がぐいぐいと紙袋に顔をくっつけてきたため、一旦しまうしかなかった。

車内がすこしだけ落ち着きを取り戻したので、浜に向かって出発した。わたしと村井さんが近況報告を交わしているうちに、彼もすこしずつ冷静になってきたようで、もう暴れることはなかった。

しかし、彼は完璧に理解していた。これから浜に向かうということを。浜に行けば泳いだり走ったりしまくれるということを。その証拠に彼の長く艷やかなしっぽは、まるで勝利を誇るように高々と突き上げられていたのだ。

<つづく>

次回の更新は6月15日土曜日です。
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