スジャータのコーンポタージュの話

スジャータのコーンポタージュが好きで好きでたまらない。すこし大きめのスーパーに行くと牛乳や生クリームの近くに見つかる、あの紙パック入りのコーンポタージュだ。スジャータめいらくグループの公式サイト(アドレスはsujahta.co.jp。お釈迦様の命を救ったインド人少女の名前の後にco.jpがつづく)によれば、正式名称は「コーンクリームポタージュ」という。けれどもこの記事では愛情を持って、コーヒーフレッシュと混同される危険性を承知の上で、「スジャータ」と呼ばせていただく。

スジャータの存在を知ったのは、母方の祖母がわたしに出してくれたときだと思う。雪平鍋でほどよく温められ、コーンの香りをやさしく放つそれを一口飲んだ瞬間、わたしの人生は「スジャータ以前」「スジャータ以降」に分けられてしまった。いままで飲んでいた粉ポタージュとは比較にならないほどその味は豊かで、「どろどろ」と言っていいほど濃厚なその液体から発する熱が、体の内側にじわじわと伝わっていくのを感じた。それからというもの、わたしはことあるごとに祖母にスジャータをねだり、果てには冷蔵庫から紙パックを取り出し、風呂上がりの牛乳よろしく冷たいまま(我々はこれを「生」と呼ぶ)飲んだりもした。

「スジャータ以降」とはいえ、歳を重ね、味覚が大人になるにつれてコーンポタージュそのものへの興味が失われていった。スジャータだけでなく、クノールについてもだ。カップに残るポタージュのように、わたしのスジャータ熱も自然と冷めていってしまった。しかし、どうあがいても缶入りポタージュの底に残る数粒のコーンのように、その熱が完全に消えることはない。いまでも、冬に負けそうになったときにわたしの頭に浮かぶのは、あの紙パックなのだ。

「ポタージュ比喩」の引き出しが空になったところで、スジャータとの近況についてお話ししたい。

わたしの行きつけのスーパーには常にスジャータが置いてあり、いつでも買うことができる。価格も手頃であるから、自宅の冷蔵庫に常備することだって可能である。でもしない。絶対にしない。そんなことをすれば、スジャータの「スペシャル感」を損なってしまうからだ。

竹内まりやに恨みはないが、「毎日がスペシャル」であってはいけないと思う。スペシャルはたまにあるからスペシャルなのであって、毎日をスペシャルにしてしまうと、スペシャルそのものが死んでしまうのだ(スペシャルの死)。せめて「月1がスペシャル」、どうしてもというなら「週2がスペシャル」くらいにしてほしい。

わたしにとってスジャータは、いつまでも特別な存在なのである。自分を失いそうになったとき、もしくは、この世は捨てたもんじゃないと思いたいときにだけ飲みたい。たとえば、ヤケ酒なんて体に毒だが、ヤケ生スジャータならカロリー以外の問題はないだろう。読者の皆さんにおいては、くれぐれも粒が喉につまらないように注意してほしい。

愛しているからこそ距離を置くということの意味を、スジャータが教えてくれたのだ。

次回の更新は1月28日月曜日、正午です。

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