地元の駐車場の話

斜めに入れるタイプの駐車場だった。幹線道路と平行に、左側に直線(厳密に言えば線分)を引く。その直線と幹線道路の間に、一定の感覚・一定の角度で、左下から右上に向かっていくつもの斜線を引く。そういうタイプの駐車場だった。車幅ギリギリの間隔を開け、その直線の隣にもう一本直線を引く。その二本の直線の幅が通路であり、一方通行で車が進む。

最後に訪れたのはおそらく、わたしが中学生くらいの頃だったと思う。いまもあるかは知らない。地元の商店街の専用駐車場であるそこは、わたしの記憶のなかで父親の運転技術と深く結びついている。

「土地活用」という呪縛の産物のような都心の狭い駐車場と、地方都市のイオンモールの駐車場では難易度のケタが違うが、その意味であの駐車場は「田舎離れ」していた。大学進学で地元を離れ、東京で(厳密には横浜市港北区で)免許を取得したわたしの目からも、あそこへの駐車はかなり難しく思える。実際に駐車に挑戦したことはないが、駐車場に入った瞬間の位置取りの時点で(つまり、内輪差を考慮していかに通路の端ギリギリに車を寄せるかで)、もう雌雄が決してしまうことはわかる。

その駐車場の「名物」が、係員のおっちゃんである。都心の駅前にある「試着室か?」と思うほど狭い宝くじ売り場と、板門店の軍事境界線にある建物の中間くらいの大きさの小屋にいる係員のおっちゃんのことである。「ことである」と言われても読者の皆さんにはなんのことかわからないし、おっちゃんも自分の職場を「試着室」やら「板門店」やらといった単語で表現されたくないとは思うが、今日はこのおっちゃんの話をしたいのである。

しっかりと凝視したことがないうえに記憶もおぼろげであるが、おっちゃんは常にぼーっとしていた。小屋の前に置かれたパイプ椅子で、(おそらくラジオでも聞きながら)団扇を仰いでぼーっとしていた。おっちゃんはおそらくシフト制で、広い駐車場を数人で切り盛りしていたはずだ。だから毎回同じおっちゃんではなかったのだが、見た目と勤務態度はほとんど同じだった。もしかすると悲しい過去を持つおっちゃんもいたのかもしれないが、いい感じに枯れたその雰囲気からは、そんな重さは感じられなかった。

誰一人として、おっちゃんからは逃れられなかった。どれほどスピーディーに止めようとも無駄だ。おっちゃんの守備範囲内で同時に二台の車が駐車していても同じことだ。おっちゃんは板門店の軍人のような鋭い目で車を発見し、先払いの駐車料金を確実に徴収するのだ。

おっちゃんの一人の名は、「駐車場田留雄(ちゅうしゃじょうだ・とめお)」と言った。「代々駐車場を営む家系なんですか」と質問すると、「そんなわけないやろ」と言われた。この駐車場で働くおっちゃんの姓は、一人を除いて全員が「駐車場田」だった。兄弟でも親戚でもない。「それってすごい偶然ですね」と言うと、「確率的にありえないことではないし、生まれ持った名前と仕事の出来は関係ない」と言われた。駐車場田留雄氏は誇りを持って働いていた。しかし、この駐車場で最も有能なのは「鈴木」という男らしかった。「なんならいっそ『とめさせお』になりたい」とも言われた気がする。

ある日その駐車場に行くと、小屋は一軒もなく、駐車料金の精算機が代わりに置かれていた。ただコンクリートに白線が引いてあっただけの駐車スペースには、駐車後に車を出せなくさせるトラバサミのような装置が設置されていた。自動化されたのだった。トラバサミのせいで調子が狂ったらしい父は、何度も切り返しをしていた。おっちゃんたちとは違い、精算機はクレジットカードにも対応していた。

駐車場田さんや鈴木さんはどこに行ってしまったのだろうか。あの正確な目を、あのいい感じに枯れた雰囲気を活かす職場は見つかったのだろうか。

ときどき、飲食店に入ってもしばらく店員に気づかれないことがある。そのたびにわたしは、「ここに駐車場田さんがいればいいのに」と唇を噛むのだ。

次回の更新は8月24日土曜日です。

励みになります。