見出し画像

神戸マラソンが終わらない話

わたしはジョギングをしない。走るのが嫌いだからだ。足も痛いし腹も痛いし、ときには目眩さえ起こす。長距離であろうと短距離であろうと、赤信号に変わりつつある横断歩道であろうと、わたしは決して走らない。そもそも点滅は黄色の代用だろうし、黄色は止まれの意だということを、わたしは日吉自動車学校の辻教官に教わったのだ。

ところが話は、バイク好きの辻教官についてではない。ある日わたしは散歩中、だったらやめればいいのにというくらいつらそうな顔で走る中年男性とすれ違った。よくある光景だ。男性はほぼ白無地のシューズを履き、蒲焼きのように日焼けした脚を短パンから出しながら遠近法の消失点に近づいていく。わたしはそれを見ながら、男性が着ていたTシャツの柄を思い出していた。そこには確かに、KOBE MARATHON 2016とあった。男性は神戸マラソン2016の参加者だった。

スーパーで買った食材で無水カレーをつくって食べたあと、暇が煮詰まったわたしは神戸マラソンの様子が知りたくなり、画像検索をした。2016年大会を切り取った一枚のなかに、先程の男性がいた。ジョギング好きの中年男性の顔はだいたい似ているが、やはりあのつらそうな、折る勢いで歯を食いしばる顔は彼だけのものだった。わたしは彼のファンになり、ゼッケンの番号をもとに実名を割り出し、2017年以降の参加者リストに目を走らせた。しかしそのどこにも彼の名はなかった。それどころか、その他日本中の大会を探しても、ローマ字にして海外の大会を探しても(読みやすい名前で助かった)、その名はなかった。わたしはある衝動に突かれ、部屋着のまま百貨店に向かった。

店員に言われるがままに買ったアディダスのシャツ、ヨネックスの短パン、ナイキのソックス、オニツカのシューズを身にまとって路上に立つ。数日後にあの男性が同じ格好で走ってきたので、わたしはそろそろ休憩終わろかな、という表情で自然に後をつける。西武線の踏切に男性がつかまり、ここしかないと勇気を出す。

「こんにちは。いい天気ですね」
「ああ、こんにちは。ちょうどいいですね」
「なんでずっと走りつづけてるんですか?」
わたしはランナー同士の会話のテンポがわからず、すぐに聞きたいことを聞いてしまう。
「なんで四年間ずっとゴールしないんですか?」
「ああ、それはですね」
答えようとする男性の左から、轟音を立てて電車が通過する。車体の黄色と窓の灰色が圧縮された縦波となり、男性が列車の向こう側にいるように見える。男性がなにかを話している、ということだけがわかる。
「…というわけなんですよ」
バーが斜めに空を指す。ひょいとくぐりぬけ、男性はすぐに点になるが、ジョギング嫌いのわたしは追いつけない。

次回の更新は11月7日(土曜日)です。

励みになります。