夜中のラーメンの話

夜中に食べるラーメンはおいしい。どう考えてもおいしい。多くの識者が指摘するように、その鍵を握るのは「罪悪感」だ。

罪悪感が最高のトッピングである、という名言がある。誰が言ったか知らないし(空耳アワーではない)、わたしが無意識で捏造したのかもしれない。

もし「罪悪感」がどんな食事もおいしくするなら、その罪悪の方向が自分の健康でなくてもいいはずだ。たとえば、アンパンマンがパンを子どもに与える場面に遭遇したとして、そのパンを奪って食べたらおいしく感じるだろうか。否、罪悪感過多である。それに、「アンパンチ」というポップな語感では不適当なほど、激しく殴打されるだろう。罪悪感にも「いい塩梅」があるのである。

他者を苦しめる罪悪感は「濃すぎる」とわかった。夜中のラーメンの場合も、苦しむのは翌朝の自分であり、損なうのは自分の健康である。いわば自虐だ。自虐ならなんの問題もないかというと、決してそうではない。いわゆる「自虐ギャグ」の場合も、冗談とはいえ自己肯定感を下げてしまい、巡り巡って他者の人格をも否定することになる。自分を粗末に扱う者は、他者に対しても同じ扱いをする。

ラーメンの話なのに「自己肯定感」なんてフレーズが登場してしまった。これではわたしが憎んでやまない「みつを」系ラーメン店(全身黒ずくめで頭にタオルをかぶった店員がいる、ラーメンに関係のない精神論が毛筆でそこら中に書かれた店)と同じではないか。言いたいことはつまり、健康は大事だということだ。

では、自分も他者も苦しめない罪悪感はないのか。アンパンチもされず、検診でC判定もくらわない罪悪感はないのか。ファクトが重視される時代に逆行して、事実の捏造によって問題を解決したい。

方法は簡単である。深夜のSNSに、ラーメンの画像を投稿するのだ。そのキャプションには、今まで友人と酒を飲んでいたこと、夜中だがどうしても食べたくなって人気店に入ったこと、酔いにまかせて全部のせを注文したことを記述する。もちろん、すべてウソである。ラーメンの画像も拾い物が望ましい。そしてその投稿に反応がつきはじめたら、春雨ヌードルやサラダチキンを口にする。これで誰も傷つけず、自分の健康も損なわず、嘘をついたという甘い罪悪感に酔える。「やる気あるのか?」と思うくらい味の薄いサラダチキンも、これで立派な夜食となる。

きっと試す価値はないと思うが、試してみてほしい。わたしはこれから、こんな文章を書いてしまった罪悪感をトッピングに、昼食をとるつもりだ。

次回の更新は11月15日木曜日、正午です。

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