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変なおじさんの話

変なおじさんを見かけた。とはいえ、現実世界の変なおじさんであるから、「だっふんだ」と言って奇行を完了して、周りの一般市民があわあわと踊ってカメラが引いて終わるのではない。そこからも現実はつづく。空は色を変えない。「だっふんだ」では終われないところに、この世の地獄がある。

わたしはオリジン弁当にいた。投票行って外食したい気分だったが、爆増していく感染者数を鑑みて、投票行って中食することにしたのだ。自宅ではすでに、「炊きたてのご飯」という未来のために炊飯器が働いている。だからわたしは、おかずだけを買えばよかった。

サラダのチョイスを終え、揚げ物を食べてもいい理由が見つかったので(選挙という大人らしい行動を果たしたこと)、わたしは唐揚げコーナーで熟考をはじめた。そのとき突然自動ドアが開き、文脈にない日本語が耳に飛び込んできた。

「おじさんこんなとこ止めたら危ないよ!」

声の主はおじさんだった。おじさんAが店に怒鳴り込んできて、すでに店にいたおじさんBを叱ったのだった。見ると、Bのものらしき軽自動車が店の前に止まっている。この店は大通りと狭い道が交差するところにあるから、もし狭い道から左折して大通りに入ろうとすると、避けようもなくその車にぶつかる。

「わかったよ!そんな言い方しなくていいだろ!」Bが反論する。
「す・い・ま・せ・ん!ここに車を止めないで下さい!」
「わかったよ!いま行くよ!もっと言い方があるだろ!」AとBが店を出ていく。
「す・い・ま・せ・ん!でも危ないでしょう!」

おじさん二人の罵声が遠ざかっていく。いまや店の自動ドアの音が聞こえるほどに遠くなっている。わたしは大事にならないことを確信し、冷静さを取り戻して会計を済ませた。店を出るとおじさんAも、Bも、車も消えていた。

以上が事のあらましである。どういう気持ちになればいいのか、と疑問に思ったが、人物のリアリティは胸がうずくほどだった。その意味ではこれは、気の利いた短編小説のような雰囲気さえ醸す。だからわたしはこれを、小説として読解することにした。

1.Aはどのような人物なのか
まず、正義漢であることは間違いない。用のないオリジン弁当に入ってまで他人を注意しようとするなんて、何の得にもならない行為だ。もし得があるとすれば、「この世で一つ正義が勝った」以外にない。ただ、彼には客観性に欠ける面がある。おじさんである自分が別のおじさんのことを「おじさん」と呼ぶことの不自然さに、意識が向かっていない。その絶妙な諦念を感じる服装を見る限り、おじさんの自覚はあるはずだ。だから彼は、おじさんとしておじさんを叱ったのである。ただ、同じおじさんでも同志とは思いたくないから、距離を保って「おじさん!」にしたのだろう。結果、かわいげとも言える不自然さを醸している。

2.Bはどのような人物なのか
彼の最初のセリフに注目してほしい。即答の「わかったよ!」である。この時点で彼は自分の否を認めてしまっている。つまり彼には、善悪を判断できる理性がある。彼の理性は車のセンスからも伺える。おじさんが一人でオリジンに来るには、軽自動車は最適な選択と言える。彼はおそらく、自分の普段の行動を分析し、それに合う車種を合理的に選んだのだろう。しかし、そのあとにつづくのが「そんな言い方しなくていいだろ!」である。このセリフの解釈はむずかしい。理性的な人物である彼が、Aの言い方を注意することになんらかの合理性があると判断したのだろうか。それとも、理性的ではあるが相手を負かすことに囚われていて、せめてひっかき傷を残したいと考えたのだろうか。この点については、作者はあえて解釈の幅を残していると、わたしは考える。

3.どちらが勝者なのか
最初の争いの勝敗は、二言目ですでに決まっている。「わかったよ!」の時点でBの負けである。法律もそれを支持する。そこでBは新たな争い、いわゆる「Aの言い方戦争」を仕掛けたが、これも初動の時点でBの負けである。なぜなら、相手の言い方に異を唱えたいならば、自分の言い方は正しいものでなくてはならないからだ。Bはだから、「承知しました!いま参ります!しかし、貴殿のお言葉はすこし棘があるように存じます!」と言うべきだったのだ。おじさんがおじさんのことをおじさんと呼ぶ不自然さを差し引いても、Aの最初のセリフは別段、無礼なものではない。それなのにBは、「もっと言い方があるだろ!」と、無礼さにおいて上回るセリフを吐いてしまった。完敗である。

4.この作品のテーマはなにか
間違いなく、この作品の主人公はAである。Bという存在は、Aを引き立てるための装置にすぎない(もちろん、その装置にも血が通っているのが、この作品の傑作たる所以であるが)。Aが「す・い・ま・せ・ん!」と言うたびに、わたしは彼に胸ぐらを掴まれる思いがする。「お前はこれまで、正義のために泥にまみれたことがあるのか?」とAは問うている。おじさんの自覚があるAにとって、「す・い・ま・せ・ん!」と言うことは大変な屈辱だろう。しかも相手はBである。言っちゃ悪いが格下である。それでもAは、その屈辱を受け入れてまで正義を尊重したのである。そう、「す・い・ま・せ・ん!」の奥には、彼の交通安全への真摯な願いが込められているのだ。

わたしにとってAはヒーローとなった。泥をかぶらねば正義を守れないとき、わたしはAの顔を思い出すことにしよう。しかし残念ながら、いくら頑張ってもAの顔を思い出せない。あまりにも普通のおじさんすぎて、まったく記憶に残らなかったのだ。

次回の更新は7月18日(土曜日)です。


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