スタンバイが早い話

せっかちなのは自覚している。自覚しているからこそ、それを治したいと思っている。

そもそも、せっかちはかっこ悪い。余裕がないように見える。つねに鷹揚に構え、ホームに電車が着いていたとしても「次でええねん」と、渡ろうと思っている横断歩道の信号が点滅していても「次でええねん」と思いたい。関西人ではないが「ええねん」と思いたい。

だからわたしは自分にうそをつき、本当は急ぎたいのにあえてゆっくり歩く。駆け込み乗車する大人たちに対して、「そんなに急ぐなら早く家を出たらいいのに」と言いたげな視線を投げかける。すべては、せっかちでない自分を外側から形成するための訓練なのだ。行動で精神を変革するのだ。

ここに、古(いにしえ)より論争が交わされてきた問題がある。家の鍵をいつカバンから出すかということである。

わがアパートはエレベーターなしの四階建てで、わたしはその四階に住んでいる。ひどいときのわたしは、アパートの敷地に入る前にカバンから鍵を出していた。つまり、鍵をむき出しにしながら、地上から四階まで階段を上がっていたことになる。いま思うと恥ずかしくてしかたない。「家に帰りたさ」全開である。バイキングに行ったときに(わたしは「ブッフェ」より、野蛮な感じのするこの表現を好むのだ)、人気料理の前に並ぶときと同じくらい恥ずかしい。「ローストビーフ食べたさ」を必死で隠しながら、さもいっぱしの大人のように平然と、「いや、そんなに食べたいわけじゃないですけど、人気あるみたいだし、一応と思って」みたいなすまし顔で並んでいるときくらい恥ずかしい。

「上品なやつってのはなあ、欲望に対して動作がスローなやつのことなんだよ」と立川談志は言った。細かい口調は別にしてそう言った。そう考えれば、ドアの前でゆっくり鍵を出すとか、あせらずに空いてからローストビーフを取りに行くとか、そういう動作こそ「上品」と言えるのだろう。

古(いにしえ)より論争が交わされてきた問題が、もう一つある。それが、「お年寄りがバスの席を立つの早すぎ問題」である。

年寄りに限ったことではないだろ!というバスユーザー怒りの声が聞こえてきそうだが、まあ拳を下ろして聞いてほしい。あくまでわたしの観測範囲で、お年寄りのほうがその傾向が顕著だということである。ここで問題なのは、バスの停車時の衝撃は、かなり強いということだ。「なんかスポーツやってたの?」と問われるくらいにがっしりとした足腰を持つわたしであっても、バス停車時の慣性力はなかなかのものである。片手でつり革を握るだけでは不十分で、両手でバーを握ることでやっと安定感を得られるほどだ。

だからバスの車内アナウンスでは、停車してから席を立つように何度も警告がなされる。しかし意外なほどパンクでノーフューチャーなお年寄りたちはその警告を無視し、停車ボタンを押したすぐ後に立ち上がって出口近くに歩き出す。

「危ない!」思わず声が出そうになる。いまバスが急ブレーキをかけたら、この人の膝やら骨やらはどうなってしまうのか。あまりにもスタンバイが早い。「スタンバイが早い!」という声も出そうである。停車してからでも間に合うことを伝えたい。運転手がミラーで車内を見ているから、全員降りるまでドアは閉まらないことを伝えたい。しかし、意外なほどパンクでノーフューチャーなお年寄りたちはわたしの忠告を聞いてくれるのだろうか。「なにがスタンバイだよ!」と舌を出して中指を立てやしないだろうか。

そんな風に躊躇しているうちに、バスは停留所に着き、お年寄りの体は慣性力に支配されるのだ。

あのとき「スタンバイが早すぎやしませんか」と言っておけば、このお年寄りの膝は傷まなかったかもしれない。後悔に苛まれたわたしは、ただ表示板を眺める。誰かが押した停車ボタンの音が、そんなわたしを肯定してくれているように聞こえた。

次回の更新は10月5日土曜日です。



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