涙もろさの話

先日、NHK『チコちゃんに叱られる』を観ていたら、なぜ年を重ねると涙もろくなるのか、という話題が取り上げられていた。チコちゃんいわく「脳のブレーキが緩むから」らしく、人生経験によって共感能力が強まる一方で、老化によって感情を抑制する「脳のブレーキ」の力が弱まるのだという。ゲストの大竹まことは先日、ファストフード店で子どもが一生懸命コップの水をトレーに載せて運んでいるのを見て、号泣してしまったらしい。

大竹のやさしさには胸を打たれるが、わたしなら泣かない。もちろん、そんな光景を目の前にしたら応援するし、その子どもの足元につまずきそうな何かが落ちていたらそっと拾い上げたい。だがわたしは、泣かないのである。

「緩い」の対義語が「堅い」ならば、わたしの涙腺は堅い。幼少期と、葬式への参列をのぞけば、おそらく十回も泣いていない。映画を観ても、音楽を聴いても、感動こそすれ涙は出ない。

先月、大学の友人の結婚式に出席した。幼少期に父を亡くした彼は、「女手一つで」立派に育ち、今日このめでたい日を迎えたのだった。そんな彼が、母に対して手紙を読むシーンである。会場が涙で包まれる。同じテーブルにいた大学の友人たちも泣いている。そんななかわたしは、一粒の涙もこぼさなかった。もちろん、感動はしていた。彼の震える声や、お母様の感極まった表情がわたしの胸に突きささった。涙こそ流さなかったが、わたしなりに感動していたのだ。だから、泣いていた友人に「お前は本当、感情が動かないよな」と言われ、心底傷ついてしまった。

一つの思いに没頭しないと、人は泣けないのだ。科学的な根拠はないが、きっとそうだと思う。水を運ぶ子どもを見た大竹も、新郎のスピーチを聴いた列席者も、泣いているときはただ、「がんばれ!」とか「よかったな!」といった、一つの思いしか頭になかったのだと思う。逆に言えば、水を運ぶ子どもの、その足元が気になってしまうわたしのような人間は、泣くことに向いてないのだ。

では、この「泣かなさ」「一つの思いに没頭しなさ」が役に立たないかというと、決してそうではない。数年前、台所でえげつないケガをした。子どもならただ泣くしかないそのシチュエーションで、わたしは「この程度のケガなら救急車を呼ぶ必要はないな、救急相談センタ―の番号をiPhoneで調べないとな、あ、保険証どこだっけな」と至極冷静に対応できたのだ。できるならただ泣いていたいほど痛いのに、である。

そんなわたしも数十年経てば、あらゆることで泣きまくるのかもしれない。もちろんそれは美しい変化なのだが、救急相談センターの番号は覚えていたい。

次回の更新は11月20日火曜日、正午です。


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