ドッジボールの話

そもそもドッジボールの「ドッジ」は、「ひらりと身をかわす」といった意味である(『リーダーズ英和辞典』より)。

事実は事実だからどうしようもないが、どうも納得がいかない。かわしているだけでは試合に勝てないというのもあるが、運動神経のいい人にとっては、「ドッジ」は「ぶつける」イメージだろう。そして、わたしのような人間にとっては、それは「ぶつけられる」なのだ。

生まれて初めてドッジボールというものをやらされたのは、小学生の頃だったはずだ。おそらく当時のわたしは、「こんなもの、運動神経にばらつきのある集団でやるスポーツではない」と憤っていたことだろう。彼の言う通りである。当時のわたしは賢い。

まずは、強者の視点に立ってみよう。「捕食者」ともいえる彼らは、投げられたボールを巧みに避けるか、もしくは巧みに掴み、巧みに投げ、巧みに標的にぶつける。もし彼らが「アウト」になることがあっても、それはボールを避けようとして、もしくは掴もうとしてやり損ねた結果であろう。スポーツをスポーツで例えるという愚行が許されるならば、バットはかすっているのだ。

それに引き換え弱者、つまり「獲物」である我々はどうだ。「巧み」という副詞がかかるような動作を、我々は一つもこなせない。我々はただ、ぶつけられる(受動)だけなのだ。「巧みにぶつけられる」ことを競うスポーツならば話は別だが、これは「ドッジ」ボールだ。アウトとなった我々はただ、絶対に戻れない内野を見つめながら、お荷物外野として(なんて悲しい言葉だ)試合終了を待つしかない。

こんなもの!運動嫌いが!運動嫌いを!加速させるに!決まってるじゃないですか!

「!」のたびに、議場のテーブルに拳を打ち付けているととらえてほしい。

運動のできる同級生に!ジャガーが獲物を狙うみたいな!そんな顔で睨まれて!容赦のない剛速球をぶつけられて!運動が!好きになると!お思いですか総理!

総理に問うことではなくても、残りの議員人生を「ジャガーの獲物」というあだ名で過ごすことになっても、わたしは声の限りに叫びたいのだ。あんな獣性の高い顔をつきつけられて、その上衆人環視のなか無様にボールをぶつけられて、「クラスみんなで運動をするって最高だね」などと思い直せるわけがないのだから。

ここまで「運動嫌い」と書いてきたが、厳密に言えばこれは「体育嫌い」だと思う。

自分のやりたい運動を、自分のペースでやるのはどちらかというと好きである。この時期、ウォーキングなんて最高だ。昨日は原宿から六本木まで、陽光の下を用もなく歩いた。

しかし、ドッジボールを筆頭にした「体育の呪い」のせいで、わたしはずっと運動嫌いなのだと思わされてきた。この呪いに気づけたのは、おそらく成人してからだったと思う。こんな呪いがなかったら、わたしはもっと健康だったかもしれないんですよ!総理!

いま、この記事を読んでいるなかで体育のドッジボールに苦しんでいる小学生がいるなら(いないと思うが)、こんな言葉をかけたい。

早々にぶつかって、外野同士でジャガーの悪口を言おう。その外野と友達になって、あとで好きな運動なりおしゃべりなりすればいいのだ。幸あれ!

次回の更新は3月22日金曜日、正午です。

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