「カルチャー」より睡眠の話

最近よく寝ている。毎日8時間は寝ている。酒も薬ものまずにこの記録だ。これ自体はたいへんにいいことなのだが、なにかを失ってしまったような、ふつうの大人になってしまったような、妙な寂しさをすこし感じている。

日曜日をのぞけば、毎朝8時に起きる。いつも通りに寝ていれば、この時点で6、7時間の睡眠はできている。十分だ。勤勉な同年代に比べれば、贅沢とも言える睡眠時間であろう。さらにわたしの勤務する会社は、13時始業である。12時に家を出れば余裕で間に合う。出掛けのシャワーを浴びようとも、三時間半は自由時間があるということだ。

午前中が丸々空いていると、けっこういろんなことができる。8時に起きて、近所のパン屋に行って焼き立てのパンを買って帰って、コーヒーを飲みながらゆっくりと食べて、ついでに洗濯機も回して、Netflixのドラマを一話観て、洗濯物を干して、掃除もして、前日録画したバラエティ番組を観て、積まれている本を50ページほど読んでようやく、時刻は11時半を指す。もちろんこれは一例で、小説を書き進めたっていいし、早い時間帯なら映画館で映画を観てもいい。日が差していて気持ちがいいし、まだ働いていないので疲れもない。だからすくなくともわたしは、夜が空いているよりも、朝が空いているほうが気分がいいのだ。

だが、寝るのだ。わたしは寝るのである。前段落の他にもある都市生活内の無限の選択肢を捨て、わたしは8時に起きてゴミを出したあと、再びギリギリまで寝るのだ。疲れているのではなく、単純に「寝たい」のである。

変わったな、と自分で思う。本を読んだりテレビを観たりすることより、寝ることを選ぶようになったのだ。オールナイトニッポンを午前三時まで聴いて、七時に起きて自転車で爆走していた中学生の自分はもういない。

もちろん学生時代といまでは、体力も違えば責任も違う。昔なら社会の授業中に寝ればよかったが、昼飯はゆっくりとりたいし、仕事中に寝るわけにはいかない。食事の用意も掃除も、親ではなく自分がやらねばならない。

ふつうの暮らしをしていくなかで、文化や娯楽、いまの用語で言えば「カルチャー」にかける時間や熱量が日に日に減少していく。そして、それに不満を覚えない自分がいる。これらをさみしく思うと同時に、いや待てよ、暮らし自体が文化であり娯楽なのだろうとも思う。

今月の支出を考慮しながら、分厚い本を買うか、ふかふかのバスタオルを買うかで迷っている自分がいる。わたしは、そんな自分が嫌いではない。

次回の更新は12月14日(土)です。

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