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琵琶湖旅情編(1)「旅に出る理由」

卒業旅行、という感覚に近いのだと思う。

昨年10月に会社を辞め、訳書『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』を出版し、就職活動をはじめるまでの半年間。英語や翻訳の勉強とnoteの更新に明け暮れた、自分なりに充実した半年間の状態を、世間では「無職」というらしい。就活をはじめた4月から来週の就職までは「失業」だろうか。用語の定義はよくわからない。

就職活動を進め、内定が出て、就職日が決まったとき、わたしは旅に行きたくなった。大学生が就職前の春休みに卒業旅行に行くように、わたしも思いっきり旅をしてやるのだ。そう決めたわたしの頭にある犬の姿が、正確に言えば、ある犬とわたしが湖畔で駆け回る姿が浮かんだ。

わたしが翻訳者としてデビューした『ほんと、めちゃくちゃなんだけど』は、もともと翻訳家の村井理子さんが担当する予定だった。そんななか村井さんが体調を崩され、代わりの翻訳者を探すべくコンペティションが開かれ、それにわたしが応募し、代打として翻訳を担当することになった。わたしと村井さんの縁はそうやってはじまったのだ。

琵琶湖のほとりにある村井さんのお宅では、一匹のラブラドール・レトリーバーが飼われている。名前はハリー。むしろ「一頭」と表現するほうがふさわしいかもしれないほどに大きく、そして人懐っこくて優しい彼の姿を、わたしは村井さんのTwitterやweb連載を通じてコンペ以前から眺めていた。いつか彼に会いたい……。そう思いながら過ごしてきたわたしに、「卒業旅行」の機会が訪れたのだ。行くしかない。いましかない。わたしはTwitterの画面をタイムラインからDMに切り替え、村井さんに連絡をとった。

そして、旅の日程が決まった。滋賀滞在は5月27日(月曜日)から29日(水曜日)の三日間。ハリー君と湖畔に出かけるのは28日で、それ以外は天気に応じて、琵琶湖畔の観光スポットを気ままにめぐることにした。

5月27日(月)

この日の朝、わたしは快晴の松阪駅にいた。「せっかく隣の県なんだし」と、前々日から三重県の実家に帰省していたのだ。手には村井さんへの手土産である、松阪風焼き鳥のタレと伊勢うどん(どちらも常温保存可)。足には、なぜか実家で捨てる羽目になったアディダスのスニーカーの代わりに(お酒は本当に怖い)、父親からもらったクロックス。若干サイズが合わず、この時点で足が痛かったが、ゴム製品の伸縮性(の、おもに伸)に期待することにした。

松阪駅から特急に乗り、まずは京都を目指す。途中、線路が大きく分岐するポイントがあり、帰省からのUターンでいつも通る名古屋・東京方面ではなく、大阪・京都方面に特急が進んだ。旅がはじまった、と思った。

京都駅までは直行ではないため、奈良県の大和八木駅で乗り換えが必要となる。「不安だから乗り換え駅まで起きていたい」「車窓からの景色を楽しみたい」「旅行前日のテンションで寝不足だったのを解消したい」という三つの欲求が入り乱れたが、多数派に従って起きていることにした。

大和八木駅で京都行きに乗り換える。ここからは直行で、しかも京都は終点だ。安心して惰眠をむさぼっていても着く。が、車窓から見える店や小学校や塾の看板に、少しずつ京都っぽい地名が混じっていく様子から目が離せず、一睡もしないまま京都駅に着いてしまった。

電車で京都駅から滋賀県内に入るには、大きく分けて二つのルートがある。琵琶湖の東側に沿って走る琵琶湖線と、西側に沿って走る湖西線である。天気予報によれば、今日月曜日は晴れ、火曜日はくもりのち雨、水曜日はくもりのち晴れということだった。わたしは選択肢のうち、最も「晴れ」にふさわしい「びわ湖バレイ」に行くことに決め、最寄り駅を通る湖西線に乗車した。気づけばこの文章に、少しずつ「湖」の文字が増えてきている。

トンネルを抜けると琵琶湖だった(はずだ)。おそらく地元の方が多いのだろう客車からは「わあ、琵琶湖だ」という歓声も上がらず、わたしは最初、列車の左右どちらが湖なのかわからずに山の方を眺めていた。振り返ると、無数の家々や電柱の先に湖の姿が見えた。「水源は任しとき」とでも言いたげな、地元の生活に寄り添う、観光地としてではない湖の姿だった。

列車内のご婦人グループの関西弁をBGMにしながら、わたしは日光をたおやかに反射させる、向こう側が見えないほど巨大な琵琶湖を眺めていた。湖畔の街はふつうの街であり、そうではなかった。家やスーパーや中古車販売店もあるが、ホテルや桟橋やマリーナもあった。

おそらく8人だったが、オーシャンズではないと思われるご婦人グループが一斉に電車を下りた。かなり静かになった車内で、わたしはアナウンスに耳を傾けた。びわ湖バレイの最寄りである志賀駅は、もう少し先だった。わたしはもう、オーシャンズのにぎやかな声が懐かしくなっていた。

<つづく>

次回の更新は6月8日土曜日です。
今月いっぱいは「琵琶湖旅情編」をお送りする予定です。


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